小さな小さな少女だった。見た目は、ただの無力な子供に見えた。その認識が間違っていたということを、俺は否応なく見せ付けられている。
「ーー水と火と女神の御名により 希う この右手の前に すべての傷を癒したまえーー」
それは確かに女神の名を借りた神聖魔法で、その力で俺の腕についていた黒く焼け爛れたような傷痕が跡形もなくなった。どれほどの神官や魔法使いであっても、これほど見事にはいかないだろう。
リトル・ドクター。それが、少女の呼び名であった。奇跡とも思えるほどに、どんな重い病でも治してしまう。しかも、それが失われたはずの女神の眷族のみが使えるはずのものだというのは、ここに来るまで俺も知らなかった。
「あんた、リトル・ドクターは、もしかして」
しかし、これが本当に女神の眷属限定の魔法なのかと問われると、自信はない。なにしろ、実際に目にしたのは初めてだし、存在すら疑っていたんだからな。俺は。
「え、お代はいつでもいいよ。食材だと嬉しいな」
無邪気に笑っているのは、もう普通のどこにでもいそうな少女だ。彼女がそうなのかどうか、俺が立ち入るべきではない。もう何年も神殿に近寄ってもいない、この俺には。確かめる資格などないだろう。
立って、服の汚れを払う。少女も側に置いておいたバックパックを重そうに持ち上げて、もう一度俺の顔を見上げた。
「おにーさんは、聞かないんだね」
「え?」
聞き返すと、なんでもないと言って、少し大人びた微笑を浮かべた。とても、彼女と同年代の子供ではできないような、母親が子供を安心させるときのような包容感がある。とてもとても広く、その中の本当の彼女を見つけることが出来る者など、そうはいない。
両親は、いないと聞いた。討伐された小さな部族の生き残りという噂もあった。龍に育てられたとも、実はとても昔から子供なのだとも。
どれもこれも噂なだけで、真実を知るものも追求するものもいない。それが、一番謎だ。
「…雨が、来る」
ふと、少し先で立ち止まった少女は呟いた。
「わかるのか?」
「ええ。よくあたるの。おにーさん、うちで雨宿りしてく?」
さっきと変わらない笑顔のまま、彼女が聞いた。俺は、素直にうなづいた。
「私の本当の名前は」
「待った」
食事を終えた俺にさっそく話し出そうとする少女を制止する。直感が、聞いてはいけないと言っている。
「そう簡単に他人に名前を明かしちゃいけないな。俺が知っているあんたの名前は、リトル・ドクター。それでいい」
名前は、大切だ。そのたった一言で人を操ることの出来る魔法が存在していることは、誰もが知っている。それを彼女も知らないわけはないのだろうけど、知り合ったばかりの俺に明かされても困る。
「それじゃ困るなぁ」
「俺は別に、お兄さん、のままでかまわないぜ」
うーんと悩んでから、彼女は肯いた。
「わかった。じゃ、おにーさん」
「なんだ?」
「女神って、いる?」
何を問われたのか、一瞬考え込んでしまった。どうして急にそんなことを聞くんだ。女神が存在しているのは、この世界で至極当たり前のことで、疑うことなんてありえない。はず、だ。
いや、俺だって疑ったことがなかったわけじゃない。旅に出てからは特に、信じるか信じないかを常に問われるような状況を見てきた。そして得た答えは、イエス、だ。たしかに、居たんだ。この世界に、女神が。そして、決して伝承どおり、世界を見捨てたわけではないことを知った。知ってはいるが、教えられて理解できるようなことでもない。
だから、俺はこう答えた。
「あんたはどう思う?」
少し考えた後、わからない、と言った。それを不思議に思うのは、無理もないと思う。あれだけの神聖魔法を使いこなしながら、信じているのかも分かっていないというのだから。単に子供特有の純粋さ故と思うには、度が過ぎている。だれでも、使える力であるはずがないのだ。魔法と呼ばれるものはある。だが、それは女神に頼ったものではなく、自然や精霊の力を借りるもののはずだ。その場合、唱える文句自体が異なる。
「でも、信じてるんだろう?」
矛盾してはいるが、そうでなければ彼女の力の意味がつかない。信じていないものに、力を貸すような女神がいるとは思えない。
やはり、彼女はまた肯いた。
「はっきりとは言えないけど、いると思う。そんな風に感じるの」
理屈ではなく、心がそうだと言っていると、彼女は言う。そういう風に思えるようになるまで、多くの者が回り道をしていくというのに、一直線に向かえるのは純粋さがあるからこそ、か。それとも、こののどかな村の平和ゆえか。
「じゃあ、それでいいんじゃねぇ?」
んで、また否定する。と。切りがない。そもそも、なんで俺なんかにこんな相談を持ちかけるのかもわからない。ただの通り過ぎるだけの旅人の俺に話したって、何かが解決するとも限らないのに。
「どうして、こんな相談するのかわからないって、顔してる」
言い当てられて、思わず彼女の顔を見た。彼女は、頬杖をついて俺のほうを見ている。治療を済ませた後と、同じ笑顔だ。
「それはね、おにーさんが訊かなかったから、かな」
「訊かなかったから?」
「私のこのオマジナイを見ると、みんな必ず言う言葉があるの」
ーーあなたは、女神の眷属なのですか?
訊かなかったというか、訊くのをやめたというか。どうせ知ったところで俺には何の関わりもないことなのだと思っていたから、あえて訊くまでもないと考えた結果だったんだが。
「考えなかったわけじゃ、ない」
「どうして訊かなかったの?」
「もし
俺の返答に、彼女は少し淋しそうになった。関係ない、というのは言い過ぎだったか。だが、もう会うこともないのだから、きちんと言っておいたほうがいいのかもしれない。
「これは、過程の話だけどな。もしもあんたがそうなら、知らないやつなんかにこんな話をしちゃいけないな。俺が悪いやつだったら、今頃どこかに売り飛ばす算段でもしているところだぞ?」
「おにーさんは、悪い人じゃないよ。目を見ればわかるもん」
お人好しと断言されるのは、ある意味非常に困る。
「でも、金に困っていたらやるかもよ?」
「おにーさんは、お金に執着しないようにみえるけど?」
なんでこう言い当てるかな。この子供は。
椅子を立って、荷物を持ち上げる。
「もう行っちゃうの? まだ、雨降ってるよ」
「別に気にしないさ」
ドアの前まで歩いていくと、彼女は追ってきて、俺の鞄を思いっきり引っ張った。
「ぅんーっ」
「…なにしてんだ」
「お願いがあるの!」
「やだ」
「まだ何も言ってないよ」
俺の直感が、いやな予感をひしひしとさせていた。おそらく彼女はこういうつもりなのだ。
「私を一緒に連れて行ってっ」
やっぱり。
「だめだ」
子連れで旅なんて出来るかっ。ましてや、こんな目立つ術を使うやつなんて。
「役に立つからっ」
「他のやつに頼め」
「おにーさんがいいのっ」
引いても押しても離れやしねぇ。まったく。これだから、子供は。
「子供じゃなければいいの?」
「え?」
「大人ならいいんでしょ?」
「いや、そーゆーわけじゃ」
ーー女神の御名により 希う
「まさ、ちょ、やめーー」
ーー我が姿 仮の時を進めて 元の姿に戻せ
え、元の姿?
白煙と共に、少女の姿が隠される。てゆーか、今の言葉はいくらなんでも驚くぞ。元の姿って、まさか、本当に歳偽って子供の姿でいたんじゃ。
動揺している間に、霧が晴れ、そこには。
「…全然変わってねーじゃん」
「あれ? オマジナイの言葉間違えたかな」
もとの子供のままの少女がいた。何一つ変わっていない。なんなんだ、一体。
不安そうに俺を見上げた子供は、再び言った。
「連れてって」
「却下」
この問答、雨が上がるまで続くんだろうか。
「じゃあ、治療代の代わりってことで」
「おいまて」
後でとか、物品払いとかいってたから無欲なのかと思えば、そうくるか。欲があるのかないのかわからんな。
「ねー、おにーさんてば」
「だめだ」
しつこい子供をどうやって煙に巻くか、俺は半ば本気で考えた。雨が止んだら、決めようか。