浜辺には一つの足跡が続いている。それはすぐに波に消され、その後で私の足跡が続く。彼女は裸足で、両手にはお気に入りの白いヒールを持っている。汚れるからという理由ではなく、ただ砂の感触を感じたいからなのだそうだ。お気に入りの白いワンピースの裾が潮風に揺れ、彼女はただ楽しそうに歩く。風が濃茶の髪を巻き上げても、その風で飛ばされそうになっても、楽しそうだ。
「レイリも裸足のが気持ち良いわよ」
そういえば、砂の感触など何年味わっていないだろう。目の前の少女は軽いスキップをしながら、波と戯れている。
「あまり遠くに行かないでください」
「わかってるわよ」
子供扱いしないで、と少しむくれた返事が返される。もちろん、彼女は外見も中身もまったく子供ではない。同じ年代の女性に比べると発育はあまりよくないが、それ以上の明晰な頭脳は知る人ぞ知る、グループの重要な戦力となっている。
これでまだたったの14歳だというのだから、末恐ろしいというものだ。
「レイリー」
楽しそうに走ってくる姿は、まだ14にしか見えないのに、その処理能力は天才と称されても足りないほどだ。彼女にわからないことがあるとすれば、それは。
「みて、綺麗な貝殻っ」
差し出した彼女の手には大きな巻貝が乗っている。彼女の手の上だから大きいのかもしれない。手に取ってみると、私の手には小さく、簡単に握りつぶしてしまいそうだ。ぐるぐると螺旋を描いたその先で、小さな足がのぞいている。
「アルト様、これは海に返しましょう」
「どうして?」
「先客がいます」
砂浜にそれを置く。何の動きもないそれを、彼女がつつく。
「やどかりさん、いたのね」
ごめんなさいね、とそれをつまみ上げ、静かに戻ってゆく。おそらく、その貝のあった場所に。
そんなことのあったことも忘れかけていた夜、私はアルト様の枕元の椅子に座っていた。闇は深く、この鏡の迷路の中では今が昼なのか夜なのかもわからない。
不思議と眠くはなかった。ただ彼女の安らかな寝顔が見られれば、それでよかった。
遠く聞こえる金属のぶつかり合う音、悲鳴、罵声。あまりに遠い音が、現実味に欠けている。こうしていると、昔に戻った気が
「レイリ、起きてる?」
小さくかけられた声に、はっとして彼女を見る。ここがどこかも、今がどんな状況なのかも忘れそうな、穏やかな微笑みを前に、私も小さく笑う。
「あのときのやどかりさんは、どうしたかしらね」
「もう…」
死んでいるのでは、という言葉を飲み込む。死、という単語が、あまりに残酷なイメージを運んできたからだ。彼女に、そんなものは似合わない。
「もう、海に還ったのかしら」
「おそらく」
私の返答に満足したように、彼女は笑っている。
「螺旋のおうちは、どうなったかしら」
「壊れて、しまったのかしら」
静かな彼女の言葉は、深く響いてくる。彼女の家を、世界を壊してしまったのは私なのに、彼女は一度も私を責めない。全てを受け入れて、ここにいる。
ある意味でそれは、とてもありがたい。彼女の身体を傷つけずにすむから。
ある意味でそれは、とても辛い。彼女の精神が傷つき続ける証拠でもあるから。
そういえば、彼女が誰かを責める言葉というのは聞いたことがない。どんなに傷つけられても、誰も責めずにすべてを受け入れる強さはどこからくるのだろう。
「新しいおうちは、みつかるかしら」
ねぇ、と。問われて、何も返せなかった。
彼女のそばにいることは、嬉しくて辛い。卑怯な自分、汚い自分を見せ付けられるように、螺旋状に奈落へ落とされるようだ。いつだって、いつまでも彼女は高く高く上ってゆく、白い螺旋階段を昇ってゆく。それを見上げて、私はただ嬉しく思うのだ。自分が反対の暗い螺旋階段を降りているのだとしても、決して届かないのだとしても。
それでも、アルトがただ白く気高くあることは、私の喜びだ。
「レイリ」
白い小さな手が、私の荒れてごくごつした手をとり、口付ける。
「お願いがあるの」
高みにいる彼女の行動も言動も、私は一度も見通せたことはない。それで、いいんだ。彼女はいつだって、私の光なのだから。
「なんでしょうか、アルト様」
ベッドから身体を起こす。さらりと、薄茶の髪が流れた。
「様、はやめて」
「なんでしょうか、アルト」
悪意のない優しい命令に、従う。小さな少女は、自分の傍らを叩く。
「一緒に寝ましょう?」
可愛らしく小首をかしげる彼女を前に、さすがに固まってしまった。彼女が言うのは、小さな子供であった時と同じことだ。だが、今は未成熟とはいえ立派な女性だ。そんな真似をした日には、さすがの私の理性も持ちそうにない。
小さな頃のように一緒に眠ってくれるのを期待している瞳を見て、私はどうやって断ろうかと頭を悩ませた。