カラン、と乾いた音が弾けた。鳴ったのは、透明のグラスに入った溶け欠けの氷。鳴らせたのは、グラスを持つ私の手。季節は夏。青い空と白い雲と緑の多い夏の庭で、私は浴衣の足を投げ出して片手に団扇を持って仰ぎながら、だらだらと時間を過ごしている。
「はーさん、はーさん」
パタパタといつものように縁側を駆けてくる彼女の後ろから歩いてきた青年の姿をみて、手が緩み、団扇が落ちる。
「うわ、」
「あ、や、あの…ごめんなさいっ」
さっと立って、思わず駆けだそうとしたけれど、前に進めない。片手をしっかりと捕まれてしまっては。
「なんで逃げるんだい?」
「なんでって、その、あの、えーっと、ねぇ!?」
助けを求めて動かした視線のどこにも彼女は見あたらない。先に逃げやがった。患者じゃないじゃない。聞いてないわよ、この人がくるなんてっ。
まぁ、先に言ったら私が逃げるからなんだろうけど。
「別にとって食べようって訳じゃないし、今日は視察でもなんでもないから」
じゃあ、なんで来たのさ。
「たまには愛弟子の仕事ぶりでも見てやろうと思ってね」
うそつけ。何が愛弟子だ。勝手に出て行っておいて、今更何を言い出すのだ。この男は。
「お茶でも飲みながら、少し世間話でもしようよ」
「誰が淹れるんですか?」
棘を含ませて聞いてみると、ただただ満面の笑顔が返ってきた。こういうときに限って、彼女はいなくなっているんだから。
いつもの客間に彼を座らせ、私は台所で熱いお茶を淹れて戻る。お茶菓子はあるのかと戸棚を覗けば、彼の大好きな栗羊羹がしっかりと入っている。
大きなため息が出た。
「俺が来て、そんなに嬉しい?」
「うわぁっっっ」
耳元で囁かれたことに驚き、慌てて逃げようとしてバランスを崩しかける。でも、畳の上に倒れることはなくて、彼の腕の中にいる。なんでだ。
「危ないな。栗羊羹が食べられなくなるじゃないか」
「誰のせいだと…っ」
言っても仕方がないのだ。彼は私の手から栗羊羹をとると、私を抱えたまま(わざわざ机をまわって)座椅子に座った。どうして離してくれないんだ。
「あのですねー」
さっさと栗羊羹の包みを開いて、丸ごと頬張っている姿を見て、その後の言葉をいうのは諦めた。もう聞いてはいないから。
抱えられたまま、どうしてここに彼が来たのか考える。何もなくてふらりと寄るなんてありえない。
「葉桜」
「んあ?」
「…あのね、年頃の女性がそんな言葉を使うものじゃないよ」
注意されてしまった。呆れてもいるようだ。
「最近ここは評判良いみたいだね」
「そうなの?」
評判なんて興味がなかったし、気にしたこともなかった。てか、業界の評判って、ここみたいな場所が他にもあることのほうが驚きだ。
「帰省率百パーセントだって聞いてるよ」
患者を送りかえす確率のことを、帰省率と呼ぶ。でも、別にそうしようとか考えたこともなくて、ただ私は元の居場所に帰りなさい、生きることから、現実から逃げないでと言っているだけだ。
何も返さずにいると、相変わらずそういうことに興味が無いんだね、と彼が笑った。不思議と心が安まってくる。
「だからね、そろそろだと思って」
「なにが?」
私の問いには答えず、ただ私を見て、優しい目で微笑んでいて、ひどく居心地が悪い。私の髪を優しく撫でる大きな手も、柔らかく抱える温かな手も懐かしく、自然と目蓋が重くなってくる。
「夢を見たそうだね」
「んー」
「どんな夢だった?」
どうして知っているのだろうと思いながらも、妙にすんなりと喋っていた。
「ピーターパン」
「それだけじゃ、ないだろう?」
なんだっけ、なんの、夢だったかな。ひどく、哀しい、ふわふわ、の、夢。だった。
寝息を立てる少女の頭を撫でていると、正面に気配は現れた。
「いつもすまないね」
彼女は俺を見ずに湯飲みを片付けてゆく。不機嫌そうに見えるのも不安そうに見えるのも、きっと気のせいではない。
水色の素地にゆらゆらと桜の花を揺らしながら、パタパタと忙しそうにしているのは、俺と話すのを避けようとしているからだろう。
「葉桜を気に入ったのかい?」
出て行こうとした足を止め、こちらを見ずに頷く。
「行って欲しくないのだね?」
また振り返らずに頷くが、かすかにその姿が揺らいでいる。
「でも、わかってくれるね?」
「わからないよ」
哀しそうに言い残して、小さな姿が台所に消えた。
腕の中で眠る少女はそんなやりとりにも気がつかずに、ぐっすりと眠っている。
初めてあったときも、彼女はここで眠っていた。声をかけられても起きることなくぐっすりと眠っていて、死んでいるようにも見えた。だが、ここに死者は来ない。来るのは、生きている患者ばかりなのだから、彼女は患者なのだ。
しかし、こちらが気がつく前に上がり込んで眠っている患者など初めてだった。どうすればいいのかわからなかった俺は師の元に言った。彼女に留守を頼んで。
なかなか帰らなかったのは、方法が見つからなかったわけではなく、彼女の場合はここにいることこそが治療だったからだ。彼女の内面はとてもきれいなもので出来ていて、それで考えていたよりもずっと優秀な医者となった。
でも、それでも葉桜は患者だった。
「もう、帰る時間だ」
「やだっ」
とたんに彼女が部屋に飛び込んできて、葉桜にしがみついた。
「いやだよ。はーさんはここにいるの。ずっといるって、言ったもんっ」
珍しいものだ。俺にさえ懐かなかった彼女をすぐに手懐けてしまった。そしてそれは、やはり彼女の心が澄んでいるせいでもあるのだろう。
「いや、帰るのは俺だよ」
「え?」
「今日は本当に様子を見に来ただけなんだ」
「なんだぁ。驚かさないでよ、センセ」
急に安心したのか、ほろりと彼女の目から涙がこぼれ落ちる。それを拭き取ってやる。
「しかし、きっと近いうちに葉桜は帰ることになる。ちゃんと覚悟はしておきなさい」
そういうと、噛みつきそうな勢いで睨まれた。
誰にだって、帰る場所はある。
夕暮れの公園のチャイムの音を聞いて、急に家が恋しくなるように。
ないようでいて、それぞれに帰る場所はある。
だから、そのときを忘れずに時を過ごそう。
久々に書けたー!
最近、社会人二年と二ヶ月半を過ぎて、初めて出張しました。まぁ、県内でしたけど。
いろいろとやらかして、まだまだ成長しないとなぁと実感している今日この頃です。
出張中に近所で、つか実家のお隣さん宅が火事になりました。
全焼で、うちもやばかったみたいなんですがっ
先月家の塗装工事を行ったのと、前日の雨で垣根が濡れていたおかげで
火事側の窓ガラスが割れたり溶けたりするぐらいで済んだらしいです。
実家にいた祖母も怪我もなかったし、お隣さんには悪いけど、本当に良かったっ!
帰る家があるのは、本当に大切です。
と、実感したのでその火事があったからというわけではありません。
なんてゆーか、書きたくなってかいたら、こうなった。
葉桜さんの師匠ってかセンセは何者ですか。
とか、いろいろつっこみたいけど、そこは押さえてください。
近いうちにこのシリーズも終わるので。
(2005/06/28 16:59)
-- 仕事でDB作成中の合間にて。