軽い音を立て、扉が開く音でオレは顔を上げた。持っていたタバコを灰皿に押しつけて笑みを形作る。
「まだ開店前だよ、生徒さん」
声に押しこめた笑いに気づいたのか、その人物は仁王立ちして頬を膨らませた。
「生徒さんじゃありません!」
「はいはい」
「なんでいっつもそういうんですか、マスターさん」
つかつかと歩いてきて、カウンターの前に座る春霞の仕草に、オレは手を止めかける。
今日はいつもの大人し目な服装でなく、黒いスパッツに肩の大きく出た桃色のキャミソール姿だ。首には十字架を象った金のチョーカーが巻きついている。今が盛りとばかりの若さに、ふと不安が過ぎる。
「そんなカッコしてると、零一に見つかったときに言われるよ」
たしか零一の好みの服装ばかりをしていたような気がしたんだけど、今日はなんというか女の武器を全面に押し出して何をする気なのやら。
「え、零一さん来るんですか、今日?」
「さてね」
「えええ――――――っ」
慌てる様子を横目に見ながら、オレはほくそ笑む。イマドキ、珍しいくらい純粋で素直で真面目で…鈍感な子だ。在学中も卒業後も、自分のファンクラブがあったこと自体に気づいていないというほどの大物ぶりだ。零一の気持ちにも他の誰の気持ちにも、まったく気づかなかったとか。
「で。どうして今日はそんな格好なんだい?」
そんな格好でいて寄ってくるのは、ろくな男じゃないだろうに。オレの記憶が正しいなら、そのことで先日ももめてなかっただろうか。
「…言わなきゃいけませんか?」
真っ直ぐに見つめてくる瞳がさざなみの様に揺れる。しかし、その奥には聞かれても絶対に答えないぞ、というような決意が潜んでもいる。
砂糖菓子や硝子細工のごとき外見より、春霞は頑固だ。――そう、零一から聞いている。
「別に」
ここでは何を話すも話さないも自由なのだから、オレが詮索することではない。そういうと、春霞は胸を撫で下ろした。そのなんのことはない動作にまで、動揺しているオレがいる。
零一が夢中になるのもわかる気がした。こんな年の離れた少女に何動揺しているんだ、オレは。
先日も仲良くじゃれあいながらデートしている姿を見かけた。今までに見たコトのないくらい、二人とも穏やかで柔らかな顔をしていて、すこし羨ましいと思った。自分にはもう、手に入らないものだから。
「…本当に聞きたくないんですか?」
「言いたいならどうぞ」
彼女は頭の回転が速い。時として、言葉が一足飛びに越えてくるから油断ならない。
「ずるいです、マスターさん」
それはどっちのコトだろうね?
「……」
静寂に氷の音階が波紋のように広がってゆく。音に弾かれて春霞の上げた顔の前に、済んだ青色のグラスをそっと置いた。彼女が手に取ると、店内のひそやかな照明の光が反射し、グラスは赤や紫、黄色や緑色に姿を変えていく。
「わぁ…っ」
よっていた眉が離れ、その瞳と表情が驚嘆に輝く。零一と一緒にいるときほどではないにしろ、一応成功。
「変わったお酒ですね~」
観点がずれていることに内心、肩を落としたが、春霞の反応は素直で微笑ましい。
「お酒じゃなくて、グラスの方」
「え?」
年相応のキラキラしい瞳は、もうグラスにしか反応していない。
「この硝子が変わってるんですか?照明の光で?」
「うん。光の角度で…」
「硝子の粒子に光が乱反射して、色素を分解する。光種が変わることにより目に映る光の角度が変化したから、色が変貌するように見えるんだろ。違うか?」
カウンターの奥から、飽きるほど聞きなれた冷静な声が分析する。長年の付き合いからわかる不機嫌なその色に、オレは苦笑しつつ席を譲った。実は零一は先程まで奥の部屋で眠っていたのだが、春霞の気配に気がついて目が覚めたというのなら大したものだ。
いつものスーツ姿とはいえ、寝起きで流石に上着は着ていない。
「いつ来たんですか、零一さん?」
カウンター内から出て、春霞の隣にいつも通り座る友人が無言で飲み物を促した。半分は少し離れていろということらしい。
――ったく、ここはオレの店だぞ?
追い払われた店主のオレは、開店準備の仕上げに取りかかった。
★kyte_ss_0.jpg★歌斗★「主人公イメージ」★
隣に座る春霞は、一心にグラスを眺めている。彼女がグラスを揺らす度に、中で涼しげに氷が音楽を奏でる。自然な音というのは完璧なまでの様相を呈しており、クラシック・オーケストラにも劣らない。だが、俺の目に映るのはグラスでもその音でもなく、他でもない春霞の横顔だ。
「不思議ですね」
淡い霞のため息をこぼし、その視線がようやく俺に向けられた。
「そう思うでしょ、零一さん」
笑顔に見惚れ、つい返事を忘れたと言っても、罪にはならないだろう。変化するグラスの色より、今は目の前の少女の表情の変化の方が気になる。
決して完璧な生徒とは言えなかった。藤井と共に悪ふざけもする、かと思えば学年一位記録保持者であったりもする。編入当初は一学期期末で赤点を取り、その後のすべての定期テストで一位を取り続けた彼女。真っ直ぐにぶつかってきた春霞を好きになったのは、いったいいつからだったのだろう。
決して理想的な生徒、ではなかった。恋とか愛とか、そういう感情を自分がもつことさえ信じられなくて、何度も言い訳した。
「本格推理みたいですよね」
夢見心地な視線がグラスに戻ると、少し寂しくなる。春霞が色々なものに興味を覚えること自体に不満はないが、ここに俺がいること以上に大切だといわんばかりの行動に嫉妬する。
「どういうことだ?」
少しの剣を含ませても、春霞は気づかない。
「最近読んだ本の受け売りです。理屈じゃないんですよね、こんな風に硝子の色が変わるのが綺麗なのは」
「どういう意味だ?」
「綺麗なものは綺麗なんです!」
力説する肩を引き寄せようとした瞬間に、春霞が向き直った。
「零一さん、ピアノ弾いてください」
「何故だ?」
「だから、綺麗なものは綺麗なんです。零一さんのピアノが綺麗なのも同じことです!」
よくわからないが、それは褒めているのか?空中をさまよう手を、彼女の小さな手が捕えて引き寄せた。絡められる指に、高校生のように心が高鳴る。
「私、ピアノ弾いてる時の零一さん、好きです」
瞬時に自分の身体が沸騰するのがわかった。動揺を悟られたくなくて、視線を外すものの手を振り解けなくて、指先から細胞のひとつひとつまでもが叫ぼうとする。今すぐに、抱きしめたいと。触れ合いたいと。
「な…っ、離しなさい」
「弾いてくれるんですか?」
拒否など、出来るわけがない。澄んだ瞳に真っ直ぐに見つめられて『お願い』されて、拒絶などできる人間はいないだろう。…いないはずだ。
俺も、一回りも年の離れた少女にいいように振りまわされて、それでも抗うことも出来なくて。これが、恋とか愛とかいうものなのだろうか。
ピアノの音に誘われるように、客が入ってくる。零一のピアノはそれだけで客寄せにもなる。
「マスターさん」
「なんだい?」
零一のグラスを運んできたオレに、春霞が話しかけてきた。場にいる誰もが気がつかなかったが、かすかにピアノの音が乱れる。
――心配しなくても、零一の想い人に手なんか出さないって。
「どうして、零一さんはピアニストにならなかったんですか? だって、お父様もお母様もピアニストでしょう?」
不意をついた質問に驚いた。聞き返すと、高校の時分のデート時(本人は社会見学だと言い張っていた)に自分から話したらしい。
「悪い。オレもよくはしらないんだ」
明かりが消えるように小さくうつむく姿に、きっとオレは妹みたいな感情を抱いているんだ。これは小動物と一緒。包み込んであげたいなど、裏切りもいいとこだ。
「ただ、あいつ完璧主義だろ。自分で納得できなかったんじゃないかな」
そう言えば、昔彼女と同じ問いを零一にぶつけた気がする。あの時はなんて返してきたんだったかな――。
「こんなに完璧で綺麗な演奏なのに、一体何が気に入らないんでしょう」
「さぁね」
こちらを盗み見た零一と、視線が合う。不機嫌が段々とあからさまに音に表れてくる。
「マスターさん、以前言いましたよね。零一さんはピアノの前でだけ素直になれるって」
そんなこといったかな。
「だったら、零一さんのピアノが綺麗なのは、心が綺麗だからってことになりますか?」
問いかけというよりも確信に満ちた声は、愉しげだ。
「綺麗というより…純粋、かな」
あぁ、そうか。と妙に納得して、春霞はグラスに口をつけた。そういえば、今日はまだ水しか出していないな。
割れるような拍手で演奏が終わったことに気づいた。不機嫌そのものの気配に見を竦ませて、オレは友人の元へ向き直る。
「やっぱりイイねぇ、零一のピアノは」
「何を吹きこんでいた?」
「あぁもう春霞ちゃんを送る時間じゃないか?」
笑いを押さえきれずにわざとらしくいうと、苦い顔をして通りすぎようとする。その肩に手を置いて、零一だけに聞こえるように囁いた。
「今夜は月が綺麗だ。――襲うなよ?」
「な!?」
友人が顔を赤らめているところへ、ひょこひょこと春霞が近づく。他の客は面白がって遠巻きに見ている。
手は出さないが、これぐらいの意地悪は許されるだろ。
「マスター、今日は楽しそうだね」
カウンターに戻ったオレは、常連に営業スマイルを振りまいた。
「お客さんは、いつもの?」
★kyte_ss_1.jpg★歌斗★「襲うなよ?」★
最近主人公ちゃんが読んだ本とは、すなわち私が読んだ本。
北村薫氏の『ミステリは万華鏡』というエッセイです。
歌斗様が素敵なイラストを付けてくださいました~vvv
完成:2002/10/03