幕末恋風記>> ルート改変:沖田総司>> 慶応三年睦月 09章 - 09.7.1#私はここです!

書名:幕末恋風記
章名:ルート改変:沖田総司

話名:慶応三年睦月 09章 - 09.7.1#私はここです!


作:ひまうさ
公開日(更新日):2006.7.5 (2012.10.29)
状態:公開
ページ数:3 頁
文字数:10904 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 7 枚
デフォルト名:榛野/葉桜
1)
沖田イベント「私はここです!」
一条ケイさんのリクエスト

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p.1

(沖田視点)



 葉桜さんが永倉さんや伊東さんらを誘って、島原で騒いで謹慎をくらった日から二日が経った今日、彼らの謹慎が解けた。その間僕はずっと葉桜さんと何をどう話すか考えていて、だからこそ彼女の姿を探していたんだ。

 なのに、僕は葉桜さんが平助と共にいる姿を見て、思わず姿を隠してしまった。やましいことなど何もないというのに、長く彼女を避けていたせいだろうか。葉桜さんは気配に鈍感ではあるけれど、それなりの猛者だ。その間合いから遥かに離れた位置にいた僕には、二人が何を話しているのかまでは聞き取れなかった。

 ただ葉桜さんはいつものようにカラカラと笑っていて、平助は何かを必死に彼女に訴えていて、それを聞いていた葉桜さんは段々と眉根を顰めていって。彼女の質の悪い癖なのだろうが、口唇が触れんばかりに平助に顔を近づけ、何かを彼女は囁いていて。

 気がつけば、僕はそのまま踵を返し、自室へと戻ってしまっていた。

 僕が何故、こんなにも彼女に近づく人たちを強く羨むのか。もう答えは、僕の中にある。だからこそ彼女と話をしようと僕は捜していたはずなのに、さきほどの光景を見てひとつ思い出してしまった。

 あれは山南さんがまだ、この新選組に在籍していた頃の話だ。よく彼の部屋に出入りしていた葉桜さんが、ある時涙を潤ませて部屋から飛び出してきた。僕は偶然それを見てしまって。二人は誰が見ても想い合っていたのに、何故だろうと不思議に思ったんだ。

 幾度と無く彼女を観察していた僕は、本当に不本意だけれど気がついてしまった。葉桜さんは誰かを想うこと、想われること、想い合うコトをとても怖れている。

 何も返せないと、山崎さんに零しているのを聞いてしまったこともあった。自分には役目があるから、誰か一人を想うことも許されないのだと。その時の葉桜さんは泣いていたわけではないのだけれど、苦しそうだった。

 だけど葉桜さんは、誰かを想わずにはいられない人だ。惹かれることで、より一層守らなければと想うのだという。なくしたくないから多少の無茶をしてでも、自分がどうなったとしても守るのだという。当然、山崎さんは怒っていたけれど、葉桜さんの乾いた笑いだけを僕の耳は覚えていて、あのときの葉桜さんの声がよみがえってくるようだ。

「こんな私に、誰かを愛する資格なんて無い」
 悲痛な葉桜さんの声が、耳について離れない。あの日からきっと僕は葉桜さんに捕らわれてしまったのだろう。だからきっとーー。

「沖田!」
 勢い良く背後の襖を開いた音が、僕には最初、現実だと思えなかった。だって、そこにある気配は振り向かなくても葉桜さんだとわかったからだ。あれからずっと、葉桜さんも自分から僕に近づいてくることがなかっただけに、幻のように感じてしまったんだ。

 酷く怒った様相の葉桜さんが足音荒く歩いてきて、振り返った僕の前に正座する。向かい合った僕の手をそっと包む、葉桜さんの手の温かさに胸が高鳴った。

「あ、葉桜さん」
「ちょっといいか」
 今は、現実だろうか夢だろうか。目の前にいる葉桜さんは本物だろうか。本物なら何故わざわざ自分を探しにきて、しかも怒っているのだろうか。僕が心当たるとすれば、あれからずっと、葉桜さんとまともに視線も合わせていないことだ。

 久しぶりに見る葉桜さんの真っすぐな視線に、僕は心を見透かされてしまいそうで、結局は目を逸らしてしまった。

「な、何でしょう」
「私はあまり回りくどいのは得意じゃない。だから、簡潔に聞く。正直に答えてくれないか、沖田」
 葉桜さんは包み込んでいた手を外し、僕の頬を両手で挟んで、無理やりに僕と視線を合わせようとする。僕が斬る前と変わらない、本当にまっすぐで綺麗な葉桜さんの瞳に、吸い込まれそうなその虹彩の中に、戸惑っている僕が映っている。

「私を斬った直後から、今も沖田は剣を振れなくなってるそうだな。何故だ?」
 僕を問い詰める強い視線の中、かすかに葉桜さんの本気の戸惑いが見える。きっと、さっき平助にでも聞いたのだから。ああ、だから、葉桜さんはここにいるのか。

「乱闘で誤って仲間に手傷を負わせることなど、よくあることだろう。おまえだって、いくらなんでも今までそういうことがなかったわけじゃないはずだ」
「あの日の私は女として潜んでいたし、沖田が来たからこそ、普段よりも慎重に気配も殺していた。私の女姿を見たこともなかったんだし、気が付かずとも無理はない。せめて私が先に声をかけておけばよかったわけだし、おまえだけに非があることじゃないだろう」
 不意にあの時の葉桜さんの姿が、表情が僕の眼前に再現される。これはあの日から何度も目の前で繰り返される幻影だと、僕だってわかっている。わかっているが、だめだ。やはり僕は、葉桜さんにこうして心配されるような人間ではない。彼女の手から逃れようとした矢先、僕は苦しそうに、哀しそうに葉桜さんの顔が歪んだのを見てしまった。

「……それぐらい、沖田ならすぐにわかると思っていたんだ……」
 確かに、葉桜さんの言うように、僕も頭では理解できているつもりだった。だけど、あの時斬った葉桜さんの姿が、何時まで経っても僕の中から消えてくれなくて。

「か、感触が…」
 震える声で紡ぎ出される僕の言葉を、葉桜さんはただじっと待っていてくれた。

「感触が残っているんですよ。葉桜さんを斬った感触が、」
 僕は葉桜さんを想うたびに、彼女の肉を切り裂いた感触を、血の匂いをも思い出してしまって。

「剣を持つとね、あなたを斬った感触が両手に甦ってくるんです。そしてあの時の、僕を見て怯えたあなたの顔を思い出してしまう。それを思うと、剣を振る手が止まって、」
 柄に触れるそれだけの行為が、葉桜さんの斬ったあの時を僕の前に映し出してきて、僕を責め苛んでしまって。指一本動かせなくなってしまう。

「あなたの体から流れる血を見てからというもの、僕は剣を振ることが怖くなってしまった。僕が誰かを斬ろうとすると、僕の目の前にいないはずのあなたが立ち塞がるんです」
 あの日の直前に、桜庭さんから言われた忠告が、今もまざまざと思い起こされる。もっと真剣にあの時の彼女の言葉を受け止めていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

「桜庭さんの言う通りでした。考えなしに斬り続けているうちに、剣すら振れなくなってしまった、」
 今の僕に触れている葉桜さんの手は、生きている人間の温もりを伝えてくる。この温かさを自らの手で消してしまう所だったことを考えると、僕は今も心震え乱れる。

「そばにいて、心安らぐ人、その人を斬ってしまうことが、これほど辛いなんて。想像すらできなかった、」
 以前、葉桜さんは冗談みたいに、自分が裏切ったなら僕が斬れと言った。だけど今の僕には、葉桜さんを斬ることなんて、絶対に出来ない。

 もしも僕が葉桜さんを斬るために出会ったというならば、こんな風に出会ったしまったことは間違いだった。それなのに、葉桜さんの温かさを知ってしまった今は、出会わなかったということを想像することさえ恐ろしい。

「もう僕は、どうしてよいのか分かりません」
 もしも僕が葉桜さんを斬るために出会ったのだとしても、自分にはもうそんなことを到底できるとは思えない。

 僕が言葉を止めると、葉桜さんは哀しそうに僕を見つめていた目をそっと閉じた。刹那零れ落ちた涙の一粒で、僕は葉桜さんが涙を堪えていたことを知る。

「沖田、ごめん。こんなになるまで放っておいて、すまなかった……」
「葉桜さん?」
「おまえは剣を学ぶときに最初に知らなければならないことを学んでいないんだな」
 葉桜さんは何故か僕の手を取り、頬をすり寄せてくる。彼女のその動作に、僕はそんな場合ではないのに心が跳ねた。だって、葉桜さんは僕が見たことのなかった、そして見たいと願っていた顔を見せてくれていたからだ。

「最初に、知らなければならないことですか?」
 僕が聞き返すと、葉桜さんが頷いて、名残惜しげに僕から離れる。

「一度斬られればわかるかもしれないが、私は沖田にそんな怪我をさせたくない。だから、よく見ろ」
 僕の手を外した後、葉桜さんは自分の胸元に両手をかけて、その肌を露わにした。男の姿をしている時にしているサラシで、葉桜さんの双丘は見えないが、それだけでも男の僕には十分刺激が強いというのに。

「え、葉桜さんっ?」
 次の迷いなくサラシを解き始める葉桜さんの手を、僕はとっさに抑えていた。いくら男として意識されていないとはいえ、無防備にも程がある。

「これじゃよく見えないだろ?」
 しかし、葉桜さんは本気で不思議をそうに首を傾げている。

「何を言っているんですかっ。いいから早く着物を戻してくださいっ」
「ちゃんと見てもらわないとよくわからないと思うんだ」
「何がっ」
 本当に、誰かこのどうしようもない無防備な葉桜さんを止めて欲しい。ーー今、ここに来られても困るのだけど。

「ふむ、そうだな。背中ならわかりやすいだろ。お前の傷がある」
 僕がぎくりとしている間に、葉桜さんはこちらに背中を向ける。僕はとっさに彼女から顔を背けたものの、しゅるしゅるとサラシを外す衣擦れが聞こえ、視界の端に映るサラシの束が積まれてゆく。ああ、もう、どうして葉桜さんには、こうも女の自覚がないんだ。

「よく見ろよ、沖田」
「何をですか」
 僕が顔を背けたまま言い返すと、葉桜さんはくすりと笑って、もう一度言った。

「いいから、見ろ」
 僕が仕方なく、高鳴る胸と罪悪感でないまぜになって顔を上げると、葉桜さんの白い背中が飛び込んできた。普通の女性よりも日焼けて入るのだろうが、部屋の薄暗さの中で見る色はとても白くて、僕は目の前がクラリと揺れる。

 触れたことのない葉桜さんの背中は、女性にしてはという以上に、歴戦の武芸者のように数多くの傷があって。その傷をみて、僕は少しだけ冷静になった。

 普通の女性なら見られることさえ嫌がるものだが、葉桜さんはいっそ清々しいほどに誇らしげだ。

「こんな傷だらけの体なんて、見て気持ちの良いモンじゃないだろう。だけど、この傷一つ一つに意味がある」
「意味?」
 葉桜さんを気持ち悪いなんて、思えるはずがない。それどころか、その傷だらけの身体を今まで見たどんな女性よりも、僕には美しく見えた。僕が傷口にそっと触れると、葉桜さんの身体がかすかに跳ねた。

「戦うことは往々にして自分が傷つくことだし、相手も傷つけることだ。剣を持つ時、人は多少の違いはあってもそんな感じで学んでくる。だが、沖田は傷つけられる前に、必ず勝ってきた。だから、負けた時の気持ちが、傷つけられた者の苦しみが分からなかった」
「僕だって、負けたことぐらいありますよ。傷ついたことだって」
 僕が言い返すと、くすりと葉桜さんが笑って、その肩が震えた。

「だが、決定的な力の差など感じたことはないだろう?」
「どれだけ剣の腕があっても、私にはどうしても越えられない壁があった。男女の力の差というのは、それほどに大きかった。だから、父様やあの人にどれだけ傷つけられようが負かされようが、私は勝つために必死で食らいついてきたんだ」
 葉桜さんの言うあの人というのは、なんとなく芹沢さんのことのような気がした。

「沖田にはその必死さがない。仲間同士で傷つき、傷つけあって成長していくことがなかったから、今になって私を斬ったことが辛いんだろう」
 僕だって、仲間同士で鍛錬したりしたことはあった。でも、どこかで真剣になりきれなくて、遊んでいたのは事実だ。近藤さんや土方さんには敵わなかったし、他は相手にならなかった。

「でも、沖田はもう以前の沖田じゃない」
「偶然にも私を傷つけたことで、傷つけられた者の苦しみを想像できるようになった」
 これからもっと強くなれるぞと、葉桜さんは本当にうれしそうに言う。

 僕は目の前の笑っている葉桜さんと、交錯する傷ついた葉桜さんをもう一度意識して想った。葉桜さんは僕にとって、なによりも大切で、とても大切で、なくしたくない人だ。もしも葉桜さんをもう一度斬らなければならなくなったら、そんなことはないのかもしれないけれど、想像するだけで僕は恐怖で身体が震える。

「これから先あなたを、いいえ、人を傷つけなければならない時、斬り捨てなければならない時は、どうすればよいのですか?」
 だけど、葉桜さんは僕に斬られることを、どこかで望んでいて。その時の役目を誰かに譲ろうとは、僕には考えられない。

「相手の苦しみを背負ってやればいい。例え許してもらえなくとも、な」
 意味があると言っただろう、と葉桜さんは笑う。葉桜さんの傷は、彼女が斬ってきた、斬り捨ててきた者達の苦しみだ。だから、隠そうとせずに誇るのだと、葉桜さんは笑う。

「そうですか」
 葉桜さんがサラシを巻き直す姿を、今度は僕は目を逸らさずに見つめた。それは覆い隠す役目ではなく、純粋に男装のための作業なのだけど、もう僕には葉桜さんを男と見ることは出来ないだろう。

「なあ、沖田。私はおまえの仲間だ。また誤まって斬ってしまっても決して気にはするな。おまえなら、ごめん、の一言で笑って許してやるからさ」
 葉桜さんは着物を整えながら、僕に向かって、にやりと笑う。久しぶりに見た彼女らしい笑顔に釣られて、僕も笑っていた。

「あはは、あなたらしいですね。ただ剣を振るしかできない僕よりも、ずっと…強い」
「はっはっはっ、あったりまえだろ~?」
「その、今からでもいいですか? ごめんって言うのは」
「もちろんだ」
 この部屋に来た時と同じく、葉桜さんが僕を向かいあう。この人の優しさに、強さに、僕は本当に助けられている。もう一度、今度は僕から葉桜さんの手を握る。これを言ってしまえば、きっと葉桜さんは困るだろうけど、僕にはもう言わずにはいられなかった。

「ごめんなさい、僕はもう二度とあなたを傷つけない。いえ、傷つけたくない。僕にとってあなたは、傷つけてはいけない人だから、」
 どれだけ傷を負っていても、今の葉桜さんが僕にはとても愛しい。好きなんて言葉だけでは足りない。だけど、他になんて言ったらいいのか、思いつかないから。

「もしあなたが剣を使わない人であっても、これだけは言えます」
 葉桜さんなら、たぶん剣を使わなくても、僕はきっと同じように好きになる自信がある。

「僕は、あなたを好きになった。だから傷つけたくないんです。ただ、それだけなんです」
 葉桜さんの目が見開かれ、次いでその顔が紅潮し、僕が思った通り困ったように微笑んでくれる。葉桜さんの中の僕は、きっと山南さんほどにも及ばないから、今はこれでいいのだろう。

「有難う、私も沖田が好きだ。今は、まだ、仲間として」
 気を使ってくれているのがわかるけど、葉桜さんから返ってきた言葉に、僕はもう心が踊ってしまった。

「そんな言い方すると、しなくていい期待までしてしまいますよ?」
「期待?」
「僕にも、まだ望みはあるのだと」
 葉桜さんは「今はまだ」と言ってくれた。今の「好き」から先があるのだと、僕は言ってくれた気がしたから。握った葉桜さんの手を引き寄せ、僕は腕の中に温かくて柔らかな存在を抱きしめる。腕の中にある温かさに、確かな安心が僕の胸の内に広がってくる。葉桜さんが僕の剣に倒れてしまわなくて、死なせてしまわなくて、本当に良かったと僕は思った。

「お、沖田!」
「僕はあなたが好きだから、剣を持つたび目の前に現れるあなたの幻影すら斬れないんです」
 本物とか幻とか関係なく、僕にはもう葉桜さんに剣を向けることはできないだろう。二度と同じ過ちを繰り返したくはないし、僕はこの温もりを無くしてしまったら、生きていける気がしない。

「……沖田」
 仕方ないやつだなと笑いながら、葉桜さんが僕の背中に手を伸ばし、小さな子供にするように軽く叩いてくれる。今はまだ、この腕にいてくれるならそれでもいいか、と僕の口からも苦笑が零れた。

 葉桜さんに気持ちを伝えたことで、僕は随分と楽になった気がする。今はもう傷ついた葉桜さんと目の前の葉桜さんが、交錯したりしないし、もう間違わないだろう。

「もしかすると今ならーー」
 呟きかけた言葉は、胸をせり上がる衝動に遮られ、僕は慌てて葉桜さんを腕の中から遠ざけた。直ぐに咳が口をついて出てきて、口元を抑えた手にぬめりが吐き出される。

「沖田…?」
 咳が落ち着いてから手を離すと、僕の手は赤く染まっていた。思った通りだから僕はいいのだけれど、葉桜さんに余計な心配をさせてしまうだろうか。僕が恐る恐る彼女を見ると。

「慣れているな。いつからだ?」
 葉桜さんは慣れたように、懐から取り出した手拭いで僕の口を拭い、手の血を拭ってくれた。彼女に僕の病の話をしてはいないし、近藤さんたちも皆に口止めしているはずだ。それでも、葉桜さんなら、知っていても不思議はない気がする。

「ふっ、知っていたんですね。近藤さんにでも聞きましたか」
 哀しげに首を振られてから、僕は葉桜さんが時の先を知っている人だったと思い当たった。だからこそ、山南さんを必死で助けようとしていたのだから。

「僕のことも、例の紙に書いてあるんですね。だから、気にかけていてくれたんですか?」
 葉桜さんは何も言わなかったが、その表情が雄弁に物語っていた。悔しそうに歪ませている葉桜さんの口唇に、僕はそっと触れる。

「それでも構いません。あなたが手に入るのなら」
 柔らかで、少し湿り気があって、カサついた唇だけれど、きっと触れれば甘いのだろう。

「沖田…」
「ひとつだけ願いを聞いていただけませんか」
 首を傾げる葉桜さんに、僕はそれを笑って伝える。

「総司、と呼んでください」
 以前に僕が頼んだ時も、葉桜さんは同じように困ったように微笑んでいたけど。

「それぐらい、我が侭を言ってもいいでしょう?」
 僕の手に頬をすり寄せてくる葉桜さんを、僕はもう一度腕に収めて抱きしめる。

「生きると約束するなら、な」
 葉桜さんは僕の腕の中で、暴れずに身体を預けてくれた。ただそれだけでも嬉しいのに。

「いいよ、総司」
 囁かれた僕の名前を紡ぐ葉桜さんの声に、僕の心臓が大きな音を立てて脈打つ。ああ、この人に名前を呼ばれると、僕は本当に嬉しくて。力の加減も忘れて抱きしめてしまって。

「こら、ちょっとは加減しろ! バカ総司!!」
 腕の中で苦笑交じりで怒られたけれど、今は手放そうとは思えない。余計なのまで僕の名前にくっついた気もするけど、今は腕の中にいて僕の名前を呼んでくれると言うことが、ただただ僕は嬉しくて。

 このまま時間が止まってしまえばいい、と一瞬だけ願った。世界に僕と葉桜さんがいれば、なによりも幸せだから。

 そうしてじゃれ合っていた僕らは、バタバタと騒々しく駆けてくる足音に、二人で苦笑した。

「原田さんですね」
「原田だな」
 案の定、勢い良く開け放たれた障子の向こうで、一瞬原田さんが固まった。

「な、何してんだ、おまえら」
「ふふふっ」
 僕が見せつけようようにぎゅっと葉桜さんを抱きしめるけど、葉桜さんはまったく動揺することもなく。

「沖田のことは気にするな、原田」
 原田さんに話しかけた葉桜さんは、もう僕を名前で呼んでいなかった。

「それより何か用事だったんじゃないのか?」
 葉桜さんに問いかけられ、困惑していた原田さんが、我に返って騒ぎ出す。

「そうだった。おいっ、葉桜! 近藤さんが呼んでるぜ!」
「近藤さんが?」
 仕事だということだと直ぐに気づいて立ち上がる葉桜さんに習い、僕も腰を上げる。今ならきっと、もう葉桜さんの幻影に悩まされることはないだろう。

「待ってください、原田さん! 僕も行きます!」
 呆気にとられている葉桜さんが、ついで心配そうな視線で僕を見る。それに対して、僕は大丈夫だと、笑んで返した。

「お、おい、総司。大丈夫なのか、おまえ?」
 僕が人を斬れなくなっていたことを心配している原田さんにも、僕は強く頷いて返す。

「大丈夫です! それに、これ以上葉桜さんに情けない所を見せていられませんからっ」
 別にそんなこと言っていないと言う葉桜さんの手を僕がとっても、まだその顔は戸惑っているようだ。

「あー…まあ、いい! 総司もついてこい!」
 だけど、原田さんの急かす声を聞いて、僕は心配そうな葉桜さんの手を引き、局長室へと急いだ。

 僕は繋いだ手の平が熱くて、心臓が煩いぐらい騒いでいたけど、もうそれを葉桜さんから隠したいとは思わない。その音が葉桜さんに聞こえたら、葉桜さんはもっと僕を男と意識してくれるだろうか。



p.2

 近藤さんから仕事を受けて、原田さん、葉桜さんと現場へ向かうと、すぐに斬り合いになった。久しぶりの斬り合いだけれど、体は勝手に動いて、相手の剣を弾き返す。

「くっ…これなら何とか!」
 そう思った直後、敵に葉桜さんの姿が重なってみえてしまった。もう二度と、葉桜さんの幻影に悩まされることはないと思っていたのに。傲然と立ち塞がる葉桜さんを前に、僕は身体が震える。彼を斬るには、葉桜さんを斬り捨てなければならない。大切な葉桜さんに、剣を向けることなんて、僕にはできない。

「…どうして、また…!」
 さっきまで確かに葉桜さんは僕の腕の中にいて、僕の名前を呼んでくれた。でも、今は僕も彼女も剣を握り、互いに対峙していて。

「沖田!」
 目の前の幻影とは別な方向から、葉桜さんの声が、僕の名を呼ぶ。いや、この声は目の前の葉桜さんが話しているのか、どちらだ。

「私はここだ、総司! おまえの隣にいる!!」
 今度はすぐ近くで聞こえて、確かに隣に感じる温かな気配は葉桜さんのもので。

「僕の、隣に?」
 本当に、そうだろうか。

「そうだ! 私は沖田の隣にいる!

 相手の剣戟に押されてきた葉桜さんの身体が、僕に強めに当たってきて、僕の視界で不敵に笑っている。目線は相手を見据えたままだけれど、それは確かに僕が知っている葉桜さんの姿で。本当に隣に葉桜さんがいるのだと、僕は安心できた。すると、僕と敵の間にいた葉桜さんの姿がかき消える。

「ハッ…! 幻影が、消えた…」
「沖田っ!」
 彼女の叫ぶ声に、僕は咄嗟に相手の剣を受け、即座に斬り捨てる。葉桜さんを斬ったときと同じように自分の剣が相手の肉を切り裂く感触は残る。だが、それでも斬れた。

「やったな、沖田!」
 心から嬉しそうな葉桜さんを振り返り、僕も笑って同意を返そうとしたんだ。ーーその時だった。

「ええ、何とかいけそうで」
 僕の体を何かがせり上がり、発作が起きた。あの時と、池田屋の時と同じように、僕は一気に剣戟の音が遠ざかり、葉桜さんの声が小さくなってゆく。今倒れたら、僕はまたあの時のように葉桜さんに守られてしまう。今度こそ、僕が葉桜さんを守ろうと、守りたいと想っていたのに。もう指一本動かせないまま、この体が崩折れて。僕は畳に倒れ伏しながら、悔しくて、強く唇を噛んだ。

「はっ、病人なら大人しく寝てろ! 俺が切り刻んでやる!」
 僕に斬りかかってきた相手の剣を葉桜さんが受け、流れるようにその刃を相手の心臓へと突き立てる。

 薄れる意識の端で、僕は葉桜さんの戦う様を遠くに見ていた。ああ、葉桜さんはなんて綺麗な剣を奮うのだろう。揚羽蝶のようにひらひらと舞う彼女の奮う剣の前に、幾人もの敵が倒れてゆくのが見える。葉桜さんは返り血を浴びているのに、それでもとても鮮やかに美しく、匂い立つほどだ。

 これが葉桜さんの本気の剣なのか。稽古の時は、僕に一度もこんな姿を見せてくれなかった。

 こうして目の前で剣を奮っている葉桜さんはとても強く揺るぎなくて、決して倒れることはないと信じてしまうほどに強い。それなのに、闇に沈む僕の胸の内にわき起こる感情は全く別なもので。

 葉桜さんを守りたいと、守られるのではなく守りたいと、僕は強く想った。



p.3

(葉桜視点)



 絞ったばかりのひやりとした手拭いに変えてやると、うっすらと沖田の目が開く。私の姿を瞳に映し、心の底から嬉しそうに微笑んでいるなんて、しょうのない男だ。

「気が付いたか、沖田」
「葉桜さん」
「覚えているか? おまえ、また池田屋の時みたいに倒れたんだぞ」
 また私を心配させたんだぞ、と言ってやるがわかっているのかいないのか、沖田からは微笑だけが返される。

「また僕は守られてしまったんですか」
「ああ、思ったよりも症状が進んでいるらしい」
 布団の中から伸ばしてきた沖田の冷たい手を、私は強く握る。沖田から握り返してくる力は普段の半分にも満たなくて、それを私は哀しく想ってしまって。父様も病が進むほどに力が弱くなっていったことを、私は想い出してしまって。

「余り心配させるな、バカ」
 私は今度こそダメなのかと、震えてしまう。沖田は父様と同じ病気なだけに、いなくなってしまうのが、私はとても怖いんだ。

「ずっと、いてくださったんですか?」
「どうせ気になって眠れないんだ。丁度良いさ」
「ふふふ、ありがとうございます」
 別にと私は返したが、沖田は私が照れているのがわかるのかクスクスと笑われる。だが、沖田の声にも言葉にも力がない。沖田のこの病はどうすれば治るのか、いまだにわかっていないと良順は言っていた。私も、できるだけ本人のしたいようにさせてやれ、と言われてはいる。

「葉桜さん、名前では呼んでくれないんですか?」
 不安そうな沖田の顔を、私は覗きこむ。沖田から告白はされたが、私にとってはやはり沖田は小さな弟のようで、可愛いとしか思えない。

「生きることを諦めないと、約束できるか?」
 沖田に力強く頷かれることに、私は安堵半分不安半分。だけど、彼がそれを望むのならば、私にはそれぐらいしかできることがない。

「じゃあ、総司」
 私は沖田の願いどおりに彼の名を呼び、傍らに忍ばせていたものを取り出して、その手に握らせた。

「お前にこれを預けよう」
 私が沖田に渡したのは、普段持ち歩いている懐剣とは別の小刀だ。黒い鞘に収められたそれは、私以外の者には決して鞘から抜けないものだが。

「これは?」
「代々影巫女に預けられる小刀だ。おまえを、総司を守ってくれるだろう」
「そんな大切なものは」
「何、ただ預けるだけだ。お前の病が治ったら返せ」
 これは徳川の御代が始まる前から、国々の巫女を守ってきた小刀だ。それ故に、幾分かは病に効くだろう事を私は願う。

「本当はおまえの病をすぐにでも治してやりたいが、私にはその力がないんだ。だから、代わりにこいつを預ける」
「…そんな…」
「生きると、約束してくれただろう」
 私は戸惑っている沖田の頭を撫でる。

「総司が生きると言ってくれるなら、私は私が出来ることのすべてをしてやるだけのことだ。だから、絶対に生き抜いてくれ」
 私は縋る思いで沖田に囁き、小刀を握る彼の細長い指に、そっと唇を添えた。

 少しでも私の中に眠る巫女としての力が効いて、沖田の病が治るようにと願いを込めて。



あとがき

このイベントはやはり一話にすると長すぎる難がありますね。
(2006/07/05 09:48)


沖田のモノローグの人称を修正
(2006/07/06 15:39)


哀しい話になってしまったぁぁぁ。なんだか、哀しい方向にー。
そんなつもりがなくても、沖田は病死なので助ける方法が見つかりません。
発病しない、という方法もあるんじゃないかと考えもしたんですが、
それって「銀魂」ですよ、ね?
あれはいろいろとだいぶ違いますけど。
一応この話はゲームの理に沿っているので、発病します。
んで、作者の理に沿うので(ごにょごにょ。


沖田に愛が、というよりはまとめるのが下手なだけで長くなりました。ごめんなさい。
難病に打ち勝つ方法って何でしょう。
やっぱり最後は技術云々よりは本人の気力だと考えるのですが。
ところで、ヒロインの能力自体にはほとんど意味はありません。
てか、本当にこの人に巫女としての通常の力はありません。
そのうちそれについてもちょっとぐらい書けるといいけど、話が大幅に逸れそうだ。
(2006/07/05 10:48)


沖田のモノローグの人称を修正
(2006/07/06 15:41)


「裏巫女」→「影巫女」に変更。
(2007/01/07 16:06:31)


長すぎるとか書いてるのに統合する私(え
(2012/10/25)


改訂
(2012/10/29)