(近藤視点)
花も終わりの木を見上げ、珍しく葉桜君が放心しているのを見かけた。総司が山南さんのところへ行って以来、仕事以外の時はいつもそうだというのだが、こんなに朝早くから彼女は庭で一体何をしているのか。
葉桜君は深く息を吐き、それから両腕をぐっと伸ばして、大きく息を吸いこんでいる。こちらに気付く様子は微塵もなく、これほどに隙だらけというのも珍しい。だからか、なんとなく時折彼女がするような悪戯心が俺にも浮かんでしまった。気配を消したまま、そっと彼女に近づく。
「ーー春の野に菫摘みにと来し我ぞーー」
葉桜君の女性にしては少し低めの呟きは、俺の耳に心地よく響いてくる。今の言葉は何だろう、和歌だろうか。トシから葉桜君の教養高さは聞き知っているけれど、実際に彼女が口にするのを俺は初めて聞いた。
探らせても中々明らかにならない葉桜君が何者であるのか、気にはなるけれど、不思議と疑う気持ちは置きない。それは彼女がどれほど新選組に心を砕き、体を張って守ろうとしていることを知っているからだ。いつか、彼女の口から話してくれるのを、俺は待っている。
そーっとそーっと、俺は後ろから彼女に目隠しをしようと、手を伸ばし。
「だ~れだっ?」
「ーー野をなつかしみ一夜寝にけるーー」
彼女に抑えられる前にと視界を塞ぐも、葉桜君は一向に動揺することなく、言葉を続けた。紡がれた意味を考えていると、押さえた俺の手の上にそっと彼女の手が重ねられる。女性にしては、剣を握り慣れた、豆と剣蛸だらけの小さな手だ。
「ふっ、今のとおりですよ、朝帰りの近藤さん」
その声に色を感じて、思わず俺の心臓が高鳴る。俺の手を外して、くるりと振り返った葉桜君は満面の笑顔を浮かべているけど。
「また徹夜で遊んでたんでしょー」
葉桜君の言葉につい先程までの出来事を想い出し、俺は自然と顔がにやけていた。やっぱり女の子はいいよね。一緒にいるだけで癒されるしね。
「ふっふっふっ、島原で素敵な愛に満ちた時間を過ごしてきたんだよ」
俺が思い出し笑いをしていると、こちらをじっと見つめている葉桜君に気が付く。吸いこまれそうなほどに澄んだ瞳に青い空が映っているが、その奥に別の光が揺らいでいる。
「あー、やだやだ。可愛い女の子で癒されるのは同意するけどさー、なーんで彼女もこんな男がいーんだか。あの人なら近藤さんでなくても、もっといい男がいただろうに、もったいなー」
珍しく否定的な葉桜君は、どうやら誰かに同情しているようだ。
「きみきみ……途中辺りから思ってることが口に出ちゃってるよ」
「聞こえるように言っているんです。近藤さんは奥さんが江戸で泣いてるとか考えないんですか?」
なんだ、心配してくれてるのは俺の奥さんのことか。葉桜君は人のことを気にしすぎる傾向がある。会ったこともない俺の奥さんの心配をしてくれるのは、優しさなのか悋気なのか。ーー後者は無いか。
「そのへんは大丈夫」
俺だって、別にツネのことを忘れているワケじゃない。単に俺は女の子が好きで、一緒にいると癒されるから通うわけで、そのいうことはどんな男でも変わらない。もしも近くにツネがいれば、俺だって他の女に通うなんてことはーーたぶんしない。ツネだってそのことはわかってくれている。だから、俺達は葉桜君が心配するようなことにはならないだろう。それを口にしようとしたのだけど、袂に入れていたものを思い出し、俺は手元へ取り出していた。
「あ、そうだ。よかったらこれをきみにあげよう」
濃桃色の袱紗に包まれたまんじゅうは、お土産にともらったものだ。
「結構お勧めだよ? 俺がおやつに食べようかと思ってもらってきたんだけどね」
「それは流石にもらったら申し訳ないです」
「はっはっはっ、気にしないでよ。京都はまんじゅうも一味違うぜ」
葉桜君は甘いものが苦手だけど、嫌いじゃないと言うことは知っている。ただ甘すぎると量が食べられないだけで、甘い御菓子は好きなんだと以前に言っていた。
「ほら、食べてみなよ」
恐る恐る口を付ける様子はどこか警戒心の強い野良猫のようで、こういう時の葉桜君は普通の女の子とおんなじように可愛らしい。
「あっ、おいしーい」
「だろぉ~?」
美味しいモノを素直に美味しいと言うとき、彼女の周りには一気に花開くみたいに空気までもが鮮やかになる。この空気が俺は大好きなんだ。
「今度行った時に、どこの店で買ったのか聞いておいてあげるよ。んじゃ、また」
あの笑顔をまた見られるなら、今度は美味しいお菓子を買ってきてあげるのもいいな、と快い心持ちでその場を後にした。
こちらを複雑そうな目で見つめている葉桜君の視線には、まったく気が付かなかった。
(葉桜視点)
私は別にお茶の作法を知らないわけじゃない。ただ面倒だからやりたくないというだけだ。だから、普段部屋に居るときは水か酒を飲む。でも、それじゃ甘いものは食べられないのだ。仕方ないので、控えの間に来たわけだが、朝っぱらから起きてるやつっていうのは意外といるもんだ。
「井上さん、私もお茶もらっていーい?」
「あぁ、おはよう、葉桜さん」
お茶を飲んでいる井上の隣に座り、急須からお茶を注ぐ。さすがに井上に頼むのは気が引けるからだ。他の平隊士に対してなら遠慮なく言えるんだけど、この人はイイ人過ぎて頼みにくい。
お茶を注いでから、袂から食べかけの饅頭を取り出す。小さく口をあけてもう一口と口にすると、口いっぱいに幸せの甘味が広がって、ああ、幸せだ。でも、ここでこのままもう一口を行くと大変なことになるので、とりあえずお茶を飲む。一口でも限界ギリギリだ。
「あ、井上さんも食べます? この辺ならまだ食べてないですから」
「いや、気持ちだけで十分だよ。それはそうと、そのまんじゅうは?」
私が控えの間に来るのも珍しければ、甘い饅頭を食べている姿も珍しいからか、井上は少しばかり目を瞠っているようだ。確かに、私は屯所内でもあまり飲食をしない。量を食べないし、どちらかというと酒を飲んでいる姿の方が誰にとっても馴染みだろう。
私が近藤からこの饅頭をもらったことを明かすと、井上はあっさりと納得した。
「ははぁ、近藤さんらしいよ。彼は親しみを感じる人にものをあげるクセがあるんだよ」
「親しみ? 私にですか?」
「単に女の子だからかもしれないけどね。とにかく親切にしたいんじゃないかな」
ぱくりともう一口を口にし、お茶を啜る。
「あの人、私を女と思ってるかなぁ」
「いや、葉桜さんがいくら強くてもやっぱり女の子だよ。こんな風に甘いもの好き」
「ううん、そんなに好きじゃない。このおまんじゅうももらったけど、お茶がないと一口しか食べられないからここに来たんだし」
わずかに井上の口許が引きつったような。
「あ、そうなんだ。でも、ま、近藤さんは単純に女の子が好きなんだよ。とにかく女の子には優しくしてあげることが身に染み付いてるのさ」
しかし、私自身としては別に自分が女らしいとは微塵も思っていない。女らしくしようとも思っていない。それなのに、女扱いというのもどこか腑に落ちない。
「うーん、女の子にねぇ」
「俺も葉桜君はどんな風にしていてもやっぱり女の子だと思うよ」
「いや、それはいいんですけど、でも近藤さんって奥さんがいますよね? 見ようによっては遊び人にしか見えないですよ」
おー引きつってる、引きつってる。でもさ、女としてだったら、やっぱりツネさんの立場ってなんだか可哀相に見えなくもないと思うワケでさ。
「ははは、それも間違っちゃいないからなあ。まあ、若い女の子には近藤さんの本質はあまり理解できないかもね」
頑張って庇ってるけど、たしか井上さんも試衛館出身だから、ツネさんのことは知ってるはずだ。
「井上さんって、奥さんいるんですか?」
「え? い、いないよ? 急になんでそんなことを」
「じゃあ、もしも井上さんの奥さんが別にいたとして、近藤さんみたいに島原に通ったりもするんですか?」
最後の一口を放り込み、お茶を飲み干して、もういっぱいと注ぎながら聞くと、答えが返ってこない。振り返ってみれば。
「どうしたんですか、井上さんっ?」
首まで赤くなった井上という珍しいものを目にしてしまった。もしかして、誤解させたか。
「い、いや、何でもない。何でもないよ。その、もしも俺が近藤さんの立場だとしたら、島原には行かないよ」
話を合わせてくれているのがわかって、なんだか申し訳ない気持ちになる。男にはどうにもならない事情ってものがあるのだと、小さい時分に父様から聞いていたから。遠く離れているときはどうしたって人肌恋しくなることもあるのだ、と。
どうしたのと聞いてきた井上から視線を逸らす。
「ごめんなさい、困らせてしまいましたね。本当はわかっているんです。でも、近藤さんの周りの女の子たちをみているとなんだか哀しくなってしまって」
「だって、近藤さんは島原行って朝帰りとかもしますけど、奥さんも女の子たちもどっちも好きで、それでいいかっていうと、やっぱり女の子は好きな人に自分だけ見てほしいってあることもあるし」
「それに私は近藤さんの気持ちもわかるんですよ。朝帰りはともかく、島原の綺麗に着飾った女の子にお酌してもらったり、踊りを見せてもらったり、唄ってもらったりすると、気分が癒されますしね」
私だって、疲れたときには島原や祇園に遊びに行ったりするのだ。自分は女だから、近藤たちのようなことにはならないけど、彼女たちと遊ぶことはある。
「今の立場でなければ、女として近藤さんを諫めることは出来る。だけど、隊士としている今は何も言えなくて」
ふと、井上が何かを合図しているのに気が付く。後ろに誰かいるのだろうか。
「て、近藤さん立ち聞き?」
気が付かれたとわかると近藤は飄々と近づいてくる。いったいどこから聞いていたんだろう。
隣に座った途端、ふわりと薫るのはいつもの近藤さんの香じゃない。さっきは庭にいたからそれほど感じなかったけど、これは深雪太夫の愛用している香だったと思う。
「…はぁ。なんか俺の悪口言ってるみたいだったから入りにくくってさ。でも、葉桜君の言うとおり、俺は綺麗な子がやさしくお酌してくれたり、踊ったりしてくれると、気分が癒されるんだ」
わかってくれているんだと言われても何と返せばいいのか。ツネさんだって、辛くないわけないし、気が付いていないわけないだろうに。なーんで、この男に一言いってやらないかなぁ!
「近藤さんは踊りが好きなんですか?」
「ああ、好きだね。唄とかでもいいんだけど、踊りを見る方が好きかな。何怒ってるの?」
「怒ってませんよ。理由がありません」
「ふぅん?」
顔を覗きこまれている気がするけど、極力近藤を見ずにお茶を啜る。だって、今は何か文句をいってやりたくもなってくる。こんなに近藤さんの奥さんのことが気にかかることなんて今までなかったんだけど、何故だろう。朝帰りなんていつものことだし、今更目くじら立てるようなことでもないのに、なんでこんなに胸がむかつくんだろう。こんな気持ちになったのなんて初めてで、どうしていいのか自分でもよくわからない。
「きみは踊ったりできるのかい?」
唐突に聞かれて、考えことをしていた私は、飾るのも忘れてつい答えてしまった。
「小さい頃に巫女舞なら叩きこまれましたよ」
言ってから気が付く。あんなものもう踊れるはずがない。
「巫女舞? なんでそんな…」
訝しげな井上の問いに、慌てる。だって、井上は私が巫女だなんて知らないんだから。知らないなら、知らないままの方が良い。
「しゅ、趣味です! 母の!! ええと、母が近所の神社の巫女をやりたかったらしくて、それで私に夢を継がせようとですね」
「いいねぇー。そのうち俺の前でも踊ってみせてよ」
とんでもないことを言い出す近藤を睨みつける。
「もう憶えてませんよ。大陸の剣舞なら今でも踊れますけど、味わってみますか?」
私が懐剣に手をかけると、首を大きく振って断られた。うーん、まぁ、ちょっと言い過ぎか。
「…まぁ、憶えていたとしても、そんな機会ありませんって。今はもう剣の稽古ばかりで、舞の稽古なんて長らくしてませんしね」
「そりゃ残念」
苦笑いの近藤に苦笑いで返す。やらされなくてよかった。憶えていないというのは嘘だけど、実際、何年も踊っていないのだ。動きが怪しい。鮮明に思い出せるのは教えてくれた先代の巫女の最後の舞。巫女だけに伝えられるあの、継承の舞だけだ。
踊っているときの彼女は夜だというのに、キラキラと眩しいほどの光に包まれていて、すごく神々しくて、普段のぽやぽやしたあの人じゃないみたいだった。すごく綺麗で、すごく哀しかったことを憶えている。舞が終われば命が果てることを知りながら、あの人はとても幸せそうだった。
私も生涯に一度はあれを舞うのかとあの時は思ったけど、月日が経つにつれてそれがイヤになった。巫女としての力の継承なくして、徳川の影巫女が替わらないというのならば、私が最後でいい。これ以上、私みたいな想いをするような者が出てはいけないんだ。
「葉桜君?」
頭を振った私の顔の横で、伸ばされた近藤の腕が止まり、少しの躊躇をする。触れるか触れないかギリギリまで伸ばした手は、私の視線の前で止まり、誤魔化すようにその手を頭に持っていった。
「そう言えば近藤さん……俺に何か用があったんじゃないのかい?」
井上に問われ、天の助けとばかりに混同はそちらへ向き直る。
「ああ、そうそう。江戸の方へこれを送っといてくれますかね?」
近藤が部屋に来てから、ずっと側に置いていた風呂敷包みを開く。そこには買われたばかりの新品の着物が一着。
「ああ、こりゃ奥さん喜ぶと思うよ。それじゃあ早速、手配しておこうか」
「すみませんねぇ」
見てみれば、それは少し地味だけれど上品な柄の着物で、それを見て葉桜が思い浮かべるのも一人だった。
「奥さんに贈り物ですか?」
嬉しそうに、照れくさそうに答える近藤を、私はじっと見つめる。
「ああ、あいつは京風の着物なんて、好きじゃないかもしれないけど、やっぱ着せてやりたくてさ。まぁ、俺の自己満足かもな」
「でもさ、あいつは今でも江戸で俺の代わりに天然理心流の道場を切り盛りしてくれてんのさ。こっちで綺麗な着物を見たりとか、うまいモノ食べたりした時に、ふと、あいつのコトを思い出すんだ」
その様子で、この人はこういう人なんだと納得している自分と、それならどうしてと疑問をもっている自分がいる。
「奥さんのこと、とても愛してるんですね」
「当たり前さ。苦労を共にしてきた相手なんだ」
はっきりと言い切れる、こういう風に思ったままのコトを素直に口に出せる。その辺りが近藤さんの魅力の一部かもしれない。
だからこそ、私もその優しい引力に惹かれてしまう。
「俺もこっちで頑張って、あいつや娘が誇りに思えるようになりたいね」
父親らしい一言に笑いが零れる。
「ふふ、素敵ですね。でも、それだったらなおさら遊郭に行かなきゃいいと思います」
表情が一変して、にやりという悪ガキの顔に代わる。
「それはそれ、これはこれ。殺伐とした仕事してると女の子の癒しが欲しくなるんだって!」
「それはわかりますけどねぇ」
男って言うのはどうしてこうわがままと言うか、甘えっ子と言うか。
「見るだけじゃダメなんですか? 手を出さなきゃ、泣く女の子も減りますよ」
「ほら、むかしから言うでしょ。据え膳食わぬは~って」
これだから、男ってのは。
「光源氏にでもなったつもりですか、ったく…」
「あ、あの~、葉桜君? ええと、疲れてるみたいだし、せっかくだから俺が心を込めて踊ってあげよっか?」
「いえ、結構です。近藤さんの謎の踊りを見ても全然癒されませんし」
というか、むしろイヤだ。あーぁ、私も島原に行って癒されてこようかなぁ。
「あははっ、謎の踊りはいいねえ。そのうちどこかで披露しよう」
隣で立ち上がる人影を見上げると、苦笑して上から頭をぐしゃぐしゃにされる。
「じゃ、また後でな」
こうして下から見上げると、大きいなと思う。その存在が父様に似ている気もするし、少しだけ芹沢にも近い気がする。だからだろうか、引き止めてしまったのは。
「あ、あのっ」
「ん、まだ何か?」
理由も無く呼び止めたなんて、私らしくもない。一体、今日はどうしたっていうんだろう。あああ、なんだかすごく怪訝そうにこっち見てるし、何か、何か言わなきゃ。
「あの、さっきは、おまんじゅう、ありがとうございました」
引き止めておいてこれしか言うことが思い浮かばない私の頭をまた近藤は思いっきりぐしゃぐしゃと撫でた。
「あれ、うまかっただろ? また今度食わせてやるよ」
去っていく姿を見送り、そちらに背を向けてお茶を啜る。
なんとなく今日の私は変だ。なんで、こんなに近藤に腹が立ってて、なんでこんなに頭をぐしゃぐしゃにされたのが気持ちよかったんだろう。なんで、最後のあの言葉が嬉しいとか思っちゃっているんだろう。あんなの近藤は女の子になら誰にでもしていることなのに。
何を、私は期待しようとしているんだろう。
最初にヒロインが諳んじているのは万葉集に収められている山部赤人という元正・聖武期の宮廷歌人の和歌です。
本来の意味は追悼みたいなものらしいですけど、
別の読み方ではつい異性と一夜を共にしてしまったととれなくもないので、
ここでは「近藤さん、また島原で寝てきたの?」と言ってるわけです。
近藤さんの心の変化と言うよりも、ヒロインが動揺。
いや、女性に対する考え方は近藤さんと同じだけど、女でも男でもないので、どちらの気持ちも考えてしまうヒロインなわけで。
とにかくこっそりとあるイベントの伏線を。
あの人はやっぱり外せないし、ヒロインと話をしているのを入れたい。
この話が午前中の話、次が午後の話。二話合わせて一日。
(2006/07/13 13:45)
「裏巫女」→「影巫女」に変更。
(2007/01/07 16:06:31)
追加話が尽く満開なので、導入の花を変更。というか、ぼかしました。
春の木に咲く花って、なんだろう…。
(2012/04/01)