慶応三年長月。長月というのは、その名の通り、日が長く感じる月でもある。暑さと暑さと暑さと、とにかく暑さで長く感じるせいじゃないかと葉桜は考えている。こと、暑さに弱いこの身には特に辛い。
ぱたぱたと木陰で手団扇を仰ぎながら、深く息を吐く。屯所の中にいても暑いんだから、外でも一緒だなどと考えた自分を呪いたい。
「あぢー…」
口に出したところで涼しくなるワケじゃないが、それでも言わずにはいられない。それほどに、暑い。
「…葉桜さん!?」
まあ、いくら人気がないとはいえ、道の途中の木陰で寝転がってたら目立つわけで。
「あー、伊東さん? お久しぶり~」
軽く手をあげてのろりと起き上がる頃には駆け寄られて、額に手を当てられていた。
「熱はなさそうですね」
「暑かったんで、ちょっと休んでいるだけです。心配しないで」
最後まで伝える前に、身体が宙に持ち上げられる。言わずもがな、見た目細腕な伊東に葉桜が抱き上げられていると言うことなのだが、体格的にも葉桜は普通の女性とは比べられない所か筋肉ばかり多くて重いはずである。いくら文武両道とはいえ、この人の細腕で運ばれるのはかなりの抵抗がある。
「い、伊東さん!」
「すぐそこに茶屋がありますから、奥で休ませていただきましょう」
「じゃなくて、」
「大人しくしていてくださいね。あまり暴れると落としてしまうかもしれません」
むしろそうしてください、という言葉を飲み込む。言葉とは裏腹にかなり余裕に見えるからだ。たしかに暑くて日向を動く気力も一瞬で消えそうだから休んでいたわけだし、そろそろ喉が渇いてきたのも確かだ。
「ええと、じゃあお言葉に甘えて」
相手が伊東と言うこともある。だから、葉桜は完全に安心しきっていた。もと仲間というのもあるが、伊東の考えは山南に、引いては才谷に近いからだ。つまり、葉桜の基本的な思想は伊東らに寄っている。それでも、新選組に残っている理由はただのひとつと今なお変わってはいない。
店の前で降ろしてもらい、自分の足で立つ。
「お礼にここは私がもちますよ」
「いえ、そういうわけには」
制止の声を振り切って、茶屋の暖簾をくぐる。
「こんにちは、お茶とお団子と、それと奥の部屋を少し貸していただけますか?」
これが道を分けるただ一つだとは、葉桜も伊東も気が付いていなかった。この時、偶然でも逢わなければ、偶然でも伊東が誘わなければ、このとき断っていれば。後々、葉桜は散々に悔いることとなる。
(伊東視点)
お茶を飲みながら、目の前の人物の様子を眺める。少し痩せただろうか。それに、かすかに見える腕には傷が増えたようにも見える。私たちが新選組を出てから、いや、山南さんが新選組から除隊してから、彼女と過ごす時間は格段に少なくなった。気持ちも泡沫と消えてしまったと想っていたが、それはどうやら錯覚らしい。
木陰で倒れている姿を見つけたときは息が止まるかと思った。以前、山南さんから見せてもらった西洋の本にあった挿絵ーー女神の姿にそっくりで、とても美しかった。それは男姿でも女姿でもきっと変わらないだろう。姿や格好ということではなく、ただ葉桜さんはいつでも葉桜さんのままだからだ。
「伊東さんが来てくれて、正直助かりました。屯所へ帰る前に一休みしていただけなんですけど、どうにも日向に出たくなくなってしまったんです。日が落ちるまで、あの場で寝ていようかと思っていました」
「…いくらなんでもそれは」
「ふふふ、ここのお団子も美味しいですねぇ。壬生寺のそばのお団子も良かったけど、うん、いいなぁ」
嬉しそうに語る姿は以前と少しも変わっていないようにも思う。だけれど。
手を伸ばしてその目元に触れていたのは、ほとんど無意識だ。自分がこんな風に女性に相対するというのも初めてで、だけれど出してしまった手を引いてしまうことも出来なくて。
「お疲れのようですね」
かけた言葉に葉桜は照れもなく笑顔を返して、私の手を掴んだ。
「人のことを気にしている場合じゃないでしょう?」
葉桜さんのことは近藤さんや山南さんから重々聞いていたが、本当にどこまでを知っているというのだろう。ふっと思わず零れた微笑みに、葉桜は私の手を両手で握り直す。剣を振る人の手だが、それ以上にやはり女性のもつ柔らかさは消えていない。
この手ですべてを守ろうとしている。それを愛しいと思う。
「葉桜さんは、何故新選組におられるのですか?」
何度この問いをしてきただろう。そして、何度同じ答えを返されても諦めきれない。
「新選組に守るべき人がいるからです」
彼女のその守るべき人というのが自分でないことが、哀しい。その瞳に私はどうしても映らないのだろうか。
「もちろん伊東さんも守りたい人です。でも、それ以上に私は新選組のあの人達を守らなければならないんです」
「もちろんそれは承知しています」
何度も聞かされているけれど、それでも諦めきれない。葉桜さんを相手にすると、これほどに自分が頑固だったのかと驚くことが多い。
「これ以上困らせないでください。私、伊東さんはとても気に入っているんです。あなたまで無くしたくない…」
瞳を潤ませながらも、まっすぐに話す。人前で泣くことをしない人と知ってはいるけれど、やはり私はそれほどに気を許されていないというのか。
「それは、どういう意味ですか?」
「答えられるなら、答えています」
思っていた矢先に真っ直ぐなその瞳から雫がこぼれ落ちた。
「教えることが出来るなら、とっくにそうしてる。だけど、彼女との約束を口に出すことはできないんです」
これは初めて聞く話だ。話せないなどと言うのは嘘には思えない。だけど、腑に落ちない。
「ーー話せない?」
「彼の死はあなたを危険にさらす。どちらも助けたいのに…っ」
力がないと肩を落とす葉桜さんの震える肩を抱く。それほどに大きな声でないのに、その叫びは何故か心に響いてきた。
強い人だと思っていた。これほどに弱い部分を知らなかった。それでも、なお惹かれた。その強さに。
「彼ーーとは?」
「…っ!」
言葉を紡ごうとして咳をする彼女の背を撫でる。
「ご、ごめんっ…やっぱり、ダメ…けほ…っ」
「無理して話さない方がいいです」
しばらく撫でていると、だんだんと落ち着いてきたようだ。私の手を止めさせ、深呼吸を繰り返す。
これだ。こういうところが普通の女性よりも強い。泣いたままでは終わらない人なのだ。前へ進む力を持ち続けている人なのだ。だからこそ、惹かれ続ける。
「伊東さん、闇は深く暗いものです」
何かを言おうとしている葉桜さんは、ひどく落ち着いた声音で囁く。
「伊東さんたちを良く思わない人もいますが、彼らはあなたに適わない。だけど、彼は違う」
「宵闇の月に引かれてはいけません。月の力に引き寄せられ、紅の雨が降るーー」
葉桜さんのもつ空気はいつも清廉な初夏の風のようなモノだ。それが、今、より一層研ぎ澄まされてゆく。雪降る夜の透明で静かな空間と同じに研ぎ澄まされてゆく。熱くもなく寒くもなく、ただ降り積もる冬の空気のようにピンと張り詰めてゆく。
「私は最初、あなたをただ強い女性とみました。でも、それは間違いだったようだ」
「全然、強くなんかないです。私は昔から泣き虫で」
「弱さを知っているからこそとても強いのですね」
腕の中で彼女の身体が強ばるのが判るけれど、伸ばした腕を引き寄せて、胸に抱きこむ。初夏の緑の香りがする。
「すいません、私は本当の葉桜さんを知らずに惹かれていたようだ。本当のあなたはこんなにも弱さを隠していたというのに、私はそれに気が付くことが出来なかった」
「今までも一人で泣いてきたのですか? わかっていれば、あなたを決して一人にはしなかったのに」
強く胸を叩いて、離れようとするのを抱きしめる。力は強いが、それでも加減してくれているのがわかる。だから、まだ私は望みを捨てきれないのだろう。
「どうすれば、葉桜さんは側にいてくれるのですか?」
葉桜さんがいれば、私は彼女を守るためにもっと強くなれると思った。ふるふると首をふるその顔を両手で挟んで上向かせる。涙に濡れてなお、美しい。弱いからこそ強くあれるという彼女の涙が。
「どうすれば、葉桜さん自身が幸せにあれるのですか?」
驚いたようにその大きな瞳が見開かれ、哀しそうにゆがめて、私の手から逃れてゆく。
「…新選組を、近藤さんをどうか信じてください…」
それは答えではない。だけど、それ以上を問うことは適わなかった。彼女が、笑っていたから。
「梅さんは新選組の敵じゃない。あの人はただの友人で、何の関わりもない」
「!?」
「ただそれを信じてください。近藤さんもそう思っているはず」
出て行く彼女にかける言葉が見つからなかった。
ここに来て、なんで伊東さん。
と、書いてる本人が一番驚いてます。
余計な伏線はっちゃったなぁ、と。
(2006/8/23 09:44:10)
~次回までの経過コメント
斎藤
「とうとう大政が奉還されてしまったか…」
「確かに討幕派の出端をくじく効果は望めるが…」
「………」
「ここが…新選組の新しい屯所か…」