奇跡や魔法なんてとっくに諦めたと思っていた。だけど、目の前にあるのは本物の奇跡で魔法だ。バイオリンは気難しい楽器で素人には絶対音なんて出せないって聞いていたから、初めて触れたそれから綺麗な音が出たときも夢のようだった。
でも、奇跡や魔法は長く続きワケじゃないって、私はちゃんと理解していなきゃいけなかった。
「ーー誰が弾いているかと思えば、おまえか。香穂」
かけられる声に顔を向けると、音楽科の制服を何時も通りに着こなした長い髪の綺麗な男の子がいる。周囲に見せているにこやかな笑顔ではなく、貶む瞳で私を射抜く。
何を言いたいのか何てわかってる。でも、ここで引き下がるなんて嫌だ。
「練習ですか、柚木先輩? そろそろ帰ろうと思っていたところですから、丁度良かったですね」
リリから昨日もらったばかりの新しいバイオリンをそっとケースに横たえる。まだ新しい感触に少し慣れないが、それでも愛しく想うそれをそっと撫でてからケースを閉める。
譜面代に楽譜は置いていない。今日やっていたのは、初めてコンクールで演奏したアヴェ・マリアだからだ。
「今日のマリアは風邪でも引いていたのか?」
意地の悪い軽口に付き合う余裕なんて、今の私にはない。バイオリンのケースを抱えて、練習室を出る。早くこの人の側を離れないと、惨めさで泣いてしまいそうだ。
「辞退するのか?」
背中にかけられる声に、走りだそうとした足を止める。
ーーコンクールを辞退する? まさか。
考えたこともなかった。リリから魔法のバイオリンをもらってから弾くのが楽しくて、音が変わるとみんなが喜んでくれるのが嬉しくて、とにかく毎日練習するのが楽しくて仕方ないのに。
ーーああ、でもあれだけ練習したのに、また振り出しに戻っているんだっけ。
うつむきたくなる気持ちを堪えて、私は顔を上げる。
「柚木先輩、案外頭悪いですねっ」
「何?」
眉を顰める男に指をつきつけ言い放つ。
「そんなこと言ってると、足元掬われますよ。私に」
強がりでもイイ。この男に弱みなんて見せたらお終いだって、もうずっと私は分かってる。
「はっ、マリアがただの風邪ならいいけどな」
練習室の扉を閉める姿に言い放つ。
「すぐに治してみせますよっ」
今はダメでも、次のセレクションまでには前以上の音を作り出してみせる。
決心を新たに私は練習室を駆け足で後にした。
あの時の焚きつけるような言葉があったから、私はここまでやってこれたんだと思う。
屋上でリリからもらったファータ印の「愛のあいさつ」を弾きながら思い浮かぶのは、全部柚木先輩との想い出ばかりだ。
初めてあったときはものすごく嫌いだった。あの作り物の笑顔を壊してやりたいと思った。誰にでも向ける同じ笑顔が嫌で嫌で仕方なかった。
何かを境に彼は私にそれを見せなくなった。その何かがなんなのかよく分からないけど、屋上で脅されたときも追いつめられているのは柚木先輩としか思えなかった。それで気が付いた。私は彼の本当の笑顔が見たかったんだって。
頑張って練習して、練習して、最高の演奏を聴かせればその笑顔を見られると思った矢先に魔法のヴァイオリンは壊れた。あんまり一生懸命に練習していて、ヴァイオリンの悲鳴に私は気が付けなかった。いや、気が付いていたのに、無理をさせて、あげく全てが壊れた。
新しいヴァイオリンで練習していたのを聞かれたのがターニングポイント。本当の私の演奏を絶対に聴かせて、笑わせてやるって思った。
屋上の扉が開かれるのに演奏を止める。息が乱れているのを無理やりに押し隠している彼に、笑顔を向けて言ってやる。
「マリアの風邪は治りましたよ」
一瞬、彼が目を丸くする。もう覚えていないかもしれないと思ったのに、つぎの瞬間にはお腹を抱えて笑い出した。
「くっ、くくくっ、はっ、はははっ」
声をあげて笑う彼に釣られて、私も声をあげて笑う。
「あははっ」
「よくそんなの覚えていたな」
「もちろんですよ。あのときの柚木先輩のおかげで私は総合優勝したんですからねっ」
「じゃあ俺のおかげだな?」
「はい、有難うございますっ」
意地悪に素直で返すと、柚木先輩は赤くなる。その後隠すように輪をかけて意地悪になるんだけど、あの一瞬が可愛いと思う。意地悪に倍返しはあまり効率も良くないしね。だって、意地悪に倍返ししたら、倍々返しされちゃうんだもん。
「俺のおかげなら、礼をもらってもいいな?」
「ええ、何がいいですか? あ、高いモノはダメですよ。私の家は一般家庭なんで」
「何高いモノじゃない」
ぐいと弓を持つ腕を引かれ、とっさに当たらないようにと手首を返す。
「礼はおまえでいい、香穂」
目の前を覆う白い肌、かすかに震えている睫毛、唇の柔らかな感触。ということはもしかしなくてもこれは、キス、されてる。
ヴァイオリンを持っている手は動かせない、弓を持つ手は押さえられている。体勢が悪くて、足も出せない。
「~~~っ」
唇を舌でなぞられ、その不思議な感触にぎゅっと目を閉じる。一瞬、私たちの間を風が通り抜けていった。
「香穂」
「何っ」
抗議しようと口を開いたら、また噛みつかれる。噛みつくみたいなのに甘くて優しいキスで、力が抜けそうになる私を柚木先輩は肩を強く押さえて支える。
意地悪に意地悪で返さなかったのに、どうしてこんなことになっているの。
すっかり力の抜けた私の耳に、柔らかくて意地悪な先輩の笑いを含んだ声が囁かれる。
「御礼は香穂の演奏が良い。さっきのをもう一度俺のために弾いてくれないかーー愛のあいさつを」
さっき自分で無理矢理お礼を受け取ったでしょうと睨みつけると、額にまたキスが降ってくる。
「立てないなら、支えていてやるからさ」
「~~~誰のせいだと思ってんですかっ!」
「ふふふ」
腕を抜け出し、屋上のコンクリートを自分の足でしっかりと踏んで立つ。大人しく支えられてなんかやるものですか。ここまで全部自分で勝ち取ってきたんだから。これからも全部自分で勝ち取っていくんだから。
「ちゃんと聞いていてくださいね」
「早くやれよ」
苛つく気持ちを落ち着かせ、大きく深呼吸をする。あの楽譜が柚木先輩をここに導いてくれたなら、私は全身全霊をもって、本当の気持ちを音に託そう。それが終わったら、もう一度「有難う」って言ってあげる。私をからかうなら、もっともっと困らせてあげる。絶対私からは好きって言ってあげないんだからね。
覚悟してよ、柚木先輩。
初・コルダ夢。なんで柚木先輩にしてしまったのか自分でも謎です。
おかしいな、金やんとか王崎先輩の方が好きなのに。
あれだけ怖かったのに、何故だろう。時間置いたから?
つか、こうして書くってコトは、やっぱり柚木先輩書きやすいのかも。
いや、柚木先輩寄りのヒロインって書きやすいのかも…。
ライバル度高いバージョンはまだ攻略していないので、適当です。
時期は第3セレクション中辺りが前半。後半はもちろん、最終セレクション終了直後ですね。
拙い創作を見てくださり、有難うございました。
(2006/06/07 15:29)
公開
(2007/01/04)