幕末恋風記>> 本編>> (慶応四年如月) 16章 - 2-それぞれの道

書名:幕末恋風記
章名:本編

話名:(慶応四年如月) 16章 - 2-それぞれの道


作:ひまうさ
公開日(更新日):2007.1.10 (2007.1.17)
状態:公開
ページ数:8 頁
文字数:20482 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 13 枚
デフォルト名:榛野/葉桜
1)
6-仇討:揺らぎの葉(129)
7-瀕死:揺らぎの葉(130)
8-希う力:揺らぎの葉(131)
9-混乱:揺らぎの葉(132)
10-それぞれの道:揺らぎの葉(133)

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p.1

6-仇討







「甲陽鎮撫隊、春日隊! 行くぞ!」
 出立の際には佐藤彦五郎が率いる春日隊を加わったものの、葉桜は新政府軍が土佐軍と鳥取軍を主力とした別働隊を板垣退助が率いて進軍しているという情報を得ていた。だが、甲陽鎮撫隊は甲府を目指して進軍を再開したものの行軍路が雪によってぬかるんで更に行軍速度が低下したため遅々として進まず、さらに加えてこの甲陽鎮撫隊は土方の布いた厳しい軍律を誇ったかつての新選組ではなく、少数の新選組の生き残りと多数の寄せ集め集団の混成部隊に過ぎなかったため、とにかく甘い餌で釣るなく。永倉の言うように行く先々で宴会をしている行軍が遅いのは当然というものだ。

 慶応四年三月五日、甲府を目前にした勝沼の地までたどり着いた甲陽鎮撫隊であったが、ここまでの行軍中、寒さと悪路ですでに八十人の兵が脱走。目指していた甲府城が既に敵の手に落ちていたことも判明し、兵の士気は最悪な状態となっていた。予想以上の戦力差でなすすべなく敗北することを危惧した土方は、前日の四日の段階で既に戦列を離れ、増援を求めるべく早駕籠で江戸へと向かっていた。そんな中、崩れていく戦況を打破するために、かつての新選組隊士たちは必死の戦いを続けていた。

「ハァッ!」
 既に何人を手にかけたかわからないけれど、敵の数は一向に減る気配もない。かろうじて仲間たちの姿は視認できるが、味方の士気が限界まで落ちているこの状況だ。逃げまどう味方に向けられる砲弾を目前に、大きく肩で息をした。

「…ここまで、かな」
 葉桜の予感はすぐさま確信に変わる。遠くから近藤の撤退の声が響いてきたのだ。

「総員退却だぁっ! 各自追撃を逃れて東へ向かえ! 江戸で合流だ!」
 途中途中で仲間に声をかけ、葉桜はギリギリまで戦場に残ることを決意する。もちろん、死ぬつもりは毛頭無い。死なない自分だから、出来ることがあるというものだ。

「東へ向かえー!」
 もしも死ぬことがあるとするならば、それまでの命。だが、捕らえられても自分にはまだ活かしてくれる人がいる限り、道が潰えることはない。

 そんな葉桜は走ってくる斎藤に手を引かれ、無理矢理に戦線を離脱した。

「ああ、斎藤かぁ」
「…もうここは危険だ」
「そっか。皆はもう逃げたかなー?」
「…ああ」
「じゃあ、私達も江戸へ向かうとするか」
 な、と笑顔を向けると憮然とした答えが返ってきた。

「俺は江戸へは行かない。やらなければならないことがあるからな」
「えー。せっかく会えたんだし、いーじゃん。一緒に行こうよ」
「なら、絶対に俺の邪魔はしないと約束してくれ」
 気配に気がつき、強い笑顔を形作る。

「嫌だ」
「…葉桜」
「そろそろおまえも出てきたらどうだ。私達に用があるんだろう?」
 葉桜と斎藤の脇の茂みががさがさと音を立て、その人物が姿を現した。それなりにこちらも薄汚れているが、ぎらぎらとした瞳の輝きだけは出会ったころとまったく変わらない。

「へぇ、俺があんたに用があるってよく分かりましたねぇ?」
「大石…」
 葉桜を制して、斎藤が進み出る。

「俺が伊東さんや才谷さんの殺害状況を調べてる間、あなたは常に俺のあとをつけてましたよね」
「なんだ、気付いてたんだ? どうりで隙がなかったワケだ」
「俺はそこまでマヌケじゃない」
 確証はないと言っていたが、やはり斎藤はそこまで調べていたのか。

「やっぱり、もうしばらくは新選組にいようかと思ってさ。そうなるとアノコトを調べてまわってる斎藤さんが邪魔だったからねぇ」
「隠し通せるとでも?」
「別にそうは思っちゃいないさ。でも時間稼ぎにはなるじゃない?」
 軽い口調で言ってはいるが、大石自身も時間稼ぎになるとは思っていないだろう。だが、バレたときに一番危険なのは恐らく近藤や土方となる。それだけは、させない。

「大石さん。いや、大石。あんたは、ここで死ぬべきだ」
 その葉桜の想いを次いで、斎藤が剣をつきつける。

「誰の敵討ちです? 坂本さん? それとも伊東さん? それとも両方かなぁ~?」
「いいえ、単にあなたが嫌いなだけですよ」
 そこで初めて、葉桜は彼らの間に立った。何も二人を仲裁しようというわけじゃない。

「どけ、葉桜」
「ふふふ、だから駄目だって言ってるじゃん。邪魔をしたら、私達の方が危ないよ?」
 葉桜が二人の間に立った理由。それは、斬るべき人が来たからに他ならない。

「いくらなんでも葉桜さんとハジメさんを斬ったりなんてしないよ」
「そうですよ。私達の用があるのは、大石さんだけです」
 鈴花ちゃんは気配を消すのが随分と上手になったものだ。藤堂が教えたのだろうか。だが、ここで突然出てきても葉桜達の誰も驚きはしない。

「久しぶりだね、大石さん」
「私たちのコト、まさか忘れてはいませんよね?」
「おやおや、やっぱりご存命でしたか。そんな気がしていましたよ、お二人さん。なにしろ、新選組にはお人好しが多すぎますからねぇ」
「あんたには、いろいろと世話になったからね。お礼に来たんだよ」
「へぇ~、それはわざわざ」
 上段に藤堂が構え、受ける大石が中断に構える。

「わざわざ俺に殺されにきてくれてありがとう」
 二人のきた理由を葉桜は知っているから、止めることは出来ない。本当は彼らの手を血で汚させたくはないのだけど、彼ら自身のために手を出すわけにはいかない。藤堂達の世話を任せていた者から葉桜は二人が大石を斬る理由を聞いていた。だからこそ、止められないと思ったのだ。これは藤堂と鈴花ちゃん、二人自身の仇討ちなのだから。

「それはこっちの台詞だよ」
「そんな強がりは」
 皆まで言わせずに斬りかかる藤堂は、しばらく戦場を離れていたとは思えないほどの剣さばきを見せる。衰えるどころか、以前よりも相当強くなっているようだ。互角ではなく、わずかに上の剣技に感嘆を漏らす。

 勝負は長くかからなかった。

「あ…っ」
 斃れた大石にゆっくりと歩み寄る。

「やった! 平助君!」
「…やっと、けりをつけられたかな」
 しゃがみ込んで、大石の顔を見下ろしても憎しみも何も浮かんでは来ない。

「くっくっく、そうやって最初から剣を振り回してくれてりゃ俺も文句がなかったさ。なのに、平和だの、何だの…と」
 淋しい人だと、思う。剣のみにしか生を見いだせない、哀しい人だ。

「違うよ。オレは時代を変えるために刀を持ったんだ。人を斬るためなんかじゃない」
 刀を振るう理由はそれぞれに違う。大石は大石で、時代への不満が理由であったのかもしれない。だけど、多すぎる血と死は人の心を麻痺させ、狂わせてゆく。そうして、狂った男の骸にそっと両手を合わせた。後ろでは再会に喜ぶ三人の声が聞こえる。

「ハジメさん、ひっさしぶり~。驚いた?」
「ああ、驚いた」
 どこで彼は道を違えてしまったのだろうか。だが、生きていて欲しい人を殺めてしまった者の命より、生きていて欲しい者が生きている今の方が葉桜には大切だ。彼はきっと守る剣を誰にも教わらなかったのだろう。だからこそ狂ってしまった。それは少しだけ自分と似ていると思う。もしも自分も父様のような人がいなければ、きっと血に狂ってしまっていただろう。それほどにこの役目には血の穢れが付きまとうから。

「お久しぶりです、葉桜さん」
「ああ、鈴花ちゃんと藤堂も元気そうで何よりだ」
 すべてを隠して二人に微笑む。

「葉桜さんのおかげですよ。ね、平助君」
「うん。お互い死にそうだったけど、何とか体も回復したんで、この人を捜してたんだよ。やっぱケジメはつけとかないと」
 戦場には似合わない二人のほのぼのとした空気に心も安らぐ。たしかに掴んでいる幸せが見えるから、嬉しいと素直に感じられる。

「これからどうする。新選組に戻ってくるか?」
「いや、オレたち一応死んだコトになってるし。オレ、もう剣は捨てるんだ」
「剣を捨ててどうするんだ?」
「伊東先生との夢は叶わなかったけど、オレにはもう一つの夢が残ってるからさ。そっちを叶えるコトにするよ」
「夢? 夢って?」
 愛おしそうに鈴花ちゃんを見つめる藤堂の柔らかな目は、もう大丈夫だと教えてくれる。この二人の未来はもうしっかりと前を向いて根付いている。

「すごく好きな子と一緒になって、子供つくって生活する夢だよ。要するにすごく平凡な暮らしさ。ほら、前に言っただろ?」
「生まれてきた子供に未来は希望に満ちているんだってコトを教えたいって」
 この二人を生かすことが出来て、本当に良かった。

「だから早くオレの子を産んでよ」
「こ、子供ぉ~!?」
「ふふ、それがいい」
「俺たちはこれからも明日なき戦いを続けていくだろうが、おまえたちのような明日の幸せを作っていく人間の方がこれからの日本には必要だ」
 二人の確かに掴んでいるその幸福に背を向ける。彼らの生にもう自分は必要ない。そうだ、と思い立って、二人に向き直る。

「鈴花ちゃん、これは私からの餞別だ」
 するりと髪紐を解くと肩にはらりと長い髪が落ちた。解いた髪紐の白い方を手渡す。

「私自身のあげられる力は少ないけれど、二人の未来に影巫女の祝福をあげよう」
 業は渡さない。ただ祝福だけが渡るように、願いを込める。

「葉桜さん…」
「大切にしますっ!」
「うん、二人とも幸せにね」
 もう一度会うことはきっと難しいだろう。だけど、生きていれば絶対にまた会えるから。だから、別れは言わずに葉桜は二人に背を向けて、歩き出す。自分の進む道はどこまで血塗られていても構わない。時々こうして出会える幸福があるなら、それだけで、構わない。

「これが今生の別れになるだろう。二人とも幸せにな」
 鈴花ちゃんらと別れてからざくざくと道をゆく。そうして彼らの気配も離れていって、完全に二人になってから葉桜は斎藤に向き直った。

「それじゃ江戸へ向かおうか、斎藤」
「さっきも言ったはずだ。俺は江戸へは行かない」
「え…?」
 そんなこと一言も書いてなかった。斎藤までいなくなるなんて、どこにも一行も。

「それじゃあ、いったいどこへ?」
 斎藤の瞳には羨ましいほどに迷いがない。

「近藤さんには申し訳ないが、俺の行くべき場所は会津だと思っている。もちろん、おまえは行きたい方へ行けばいい。俺は止めない」
 わかっていたことだ。ずっと一緒にいられる保証なんて、どこにもないことぐらい。だけど、少しだけでもあの言葉に縋っていたかったんだ。

「そっか…。私は近藤さんを助けたいから、江戸へ行くよ。ここで、お別れだな」
「そうか」
 淡々としている斎藤があっさりと背を向けて歩き出す。だんだんと遠ざかる背中が見えなくなる前に、葉桜は顔を背けた。あまりにあっさりとしすぎていて、現実を認めることができない。

「…ウソツキ」
 わかっていたんだ。ずっと一緒にいられないことぐらい、わかっていたんだ。なのにどうしてーー。

 一度だけ振り返った。そして、後悔した。振り返らなければよかった。見えないことに余計に落胆してしまう自分を叱りつけ、背筋を伸ばして前を向く。進むべき道はひとつだ。

 この後、斎藤は道中で助けた負傷兵らを率いて会津への道を辿った。葉桜はまだ永倉、原田が江戸に向かうと信じて、道を進んだ。



p.2

7-瀕死







 斎藤と別れて直ぐ、葉桜は不意を突かれて敵に囲まれた。平静の時ならばいざ知らず、予想もしなかった別れで心は千々に乱れ、剣先も定まらない。それでも、持ち前の剣技で数人は倒せた。だけど、そこまでだった。

「女、賊軍に荷担した己の愚かさを悔やめ!」
 その言葉に対し、反射的に振るった剣で一人をまた斬り倒す。

「誰が悔やむものかっ」
 すべて、自分が、自分の意思で新選組に留まることを望んだのに、彼らと在ることを望んだのに、後悔なんてするわけない。

 剣気に押され、囲みが緩くなる。機を逃さず、一気に駆けて抜け出そうとした葉桜だったが、ひとつの轟音と共に膝をついた。

「うぐ…っ」
 疲れも限界まできていたということもあって、突然の激痛に対応も出来ることなく、その場にどさりと崩れ落ちた。

「とどめを刺すか?」
「いや、この出血だ。どうせ長くはもたんだろう」
 遠ざかってゆく足音に顔を上げるほどの余裕もない。朱く染まった世界の中で、激痛に耐えながらも手を伸ばす。流れ出て行く血が終わりを告げようとしているのがわかる。止血しないと、何も出来ないまま死んでしまう。その恐怖の方が勝って、必死に手を伸ばしているのに、身体を起こそうとしているのに、思うように動かないのがもどかしい。

 撃たれたのは腹だろうか、背中だろうか、足だろうか、腕だろうか。体中が激痛に苛まれ、それを探ることさえ難しい。

 自分はこのまま死んでしまうのだろうか。何も、できないまま。このまま近藤や土方を助けることも叶わないまま。ーーそれだけは、絶対にイヤだ。

「おいっ、葉桜! こらっ、反応しやがれっ!」
 聞き覚えのある強く優しい声に薄く目を開ける。傷みのせいで溢れていた涙で視界はぼやけ、誰なのかその正体はわからない。ただ、その人が必死で助けようとしてくれているのはわかった。だから、安心して目を閉じる。

「かなりの出血だったが、何とかこれで止血はできただろ」
 ふっと、再び彼の声で目を覚ます。ついでに彼の名前も出てきた。とても信頼できる仲間だ。いつまでも親友でいられそうな、最高の仲間だ。

「…は、ら…だ…」
「葉桜、気がついたのかっ!?」
 滝に呑まれた時のように、頭に音が鳴り響いてくる。

「…っく…声…響く…」
「お…おまえ、この状況で言うことがそれかよ。もういい、黙ってろ」
 闇の中で両腕を掴まれ、温もりと冷たさが腕に触れ、耳に鎖の擦れる音がする。正面に広い背中の温かさが触れ、背負われたのだと知って、安心を預ける。

「どんなことがあっても、おまえを助けてやるからな! すぐに医者に診せてやるからな!」
 肩を組んだり、抱きついたり、抱きしめられたりといったことは友人として何度かあった。だけど、こんなにも原田の温かさが心地良いと思ったのは初めてだ。

「原田…」
「黙ってろっ」
「…おまえ、あったかいな…」
 温かさに身をまかせ、葉桜は意識を手放した。



p.3

(原田視点)



 いつだって葉桜は強くて、何があっても心配ないって思わせる力があった。だけど反面で情に深く、すぐに人に肩入れしたりするお人好しだ。彼女の前だと男だとか女だとかどうでもいいと思えた。重要なのはそういうことじゃなくて、ただ気に入るか気に入らないか。たったそのふたつしか彼女にはない。

 いつから葉桜を女と意識するようになったのかはわからない。ただ気がつくと探している自分がいて、見つけて顔を合わせたときに向けてくれる太陽みたいな笑顔を俺は好きになったんだ。男みたいだけど男じゃなくて、女らしくないけれど優しいあいつが好きなんだ。本人に面と向かってなんて、言えねーけどな。

「原田の願いが叶って、原田が本当に幸せになるといい」
 想い出すのはそんな言葉に隠された、葉桜の秘められ隠された弱さだ。いつだって強気を見せてるけれど、あいつは誰よりも臆病で、いつも一人になることを恐れていた。だからこそ、部屋に閉じこもることを恐れて、縁側で誰かと話していることが多かった。でなきゃ、道場で眠ったりまでする始末だ。

 心配する必要のないことを心配している葉桜が、ずっと気にかかっていた。本気で笑えなくて、でも心配をかけまいと必死に笑顔を作る葉桜が愛しいと思った。強くて弱くて、時折儚く消えてしまいそうな葉桜を放っておくことなんてできなかった。

 ずっとわかっていたはずなんだ。俺たちはみんな自分の意思で選んで、新選組に入った。そこからどんな道を行こうと、それはそいつ自身が選んだ道なんだ。そういうことをわかっていて、葉桜は生きる道を見つけてやりたいなんて我が侭を言うんだ。それぞれがそれぞれに目指す幸せを掴む手伝いをしたいんだ、と。入隊してきたときから我が侭なヤツだったけど、ここまで頑固だとは思わなかった。

 他の奴の幸せは他の奴に任せりゃいい。どうして自分の本当の幸せを見つけようとしねーんだよ、葉桜は。

 そんなことを考えて東への道を走っていた俺が見つけたのは本当に偶然だった。いつもの葉桜は髪を結い上げているし、あの朱い結い紐がなけりゃ気にもしなかった。いや、まあ普通に仲間が倒れてりゃ気になるだろ。

「葉桜っ!?」
 斬られたのかと少し目を走らせたが、脇腹の辺りの着物の色だけが濃い。

「撃たれたのか…!」
 目も開けず、微動だにしない葉桜の頬を叩き、大声をかけて、とにかく生きていることが知りたかった。とりあえず、息はしているが、普段よりも身体が冷たい。だけど、いつだってこいつはどんな怪我をしていたって、心配させないために笑って「大丈夫だ」とか無責任なこと言って。

「おいっ、葉桜! こらっ、反応しやがれっ!」
 うっすらと開けられた瞳は潤んでいて、まるで知らないヤツみたいに不安そうに見上げてくる。口元が何かを言ったかと思うと、すぐにまた目は閉じてしまう。一応は意識はあるらしい葉桜に応急措置を施すのが終わった頃、今度は小さいがはっきりと葉桜の声が聞こえた。

「葉桜、気がついたのかっ!?」
 何でも良いんだ、無理したっていいから「大丈夫」の一言が聞きたくて、かけた言葉に返ってきたのは「声が響く」という苦しげな呻き声で。たったそれだけだけれど、いつもどおりの言葉が嬉しかった。

 背負った身体はいつも以上に軽くて、このまま眠ってしまったらこいつは目を覚まさないんじゃないのかってぐらいに冷たくて、心配して声をかける。

「てめぇっ! 勝手に死ぬんじゃねーぞっ!」
 こっちが肝を冷やしてるってのに反応は全くない、ただ冷えてゆく体温だけが伝わってくる。

「チクショー! 何が何でも助けてやる!」
 落とさないように、だが精一杯に急いで走りながら声をかけ続ける。

「どんなことがあっても、おまえを助けてやるからな!」
 俺がどんな思いでこうしているのか、どれだけ心配しているかなんて、気がついてないんだってはっきりと思い知らされたのは次の瞬間だった。

「原田…あったかい…」
「っ! …そりゃ、葉桜が冷えてるだけだ! 黙ってろっ」
 後はただ寝息だけが耳元に届いてきて、眠った葉桜を背負った懸命に道を急いだ。幸い、少しの距離を走ったところで、木立の影に見慣れた姿がこちらに手を振ってきた。新八だ。

「左之っ、オメー無事だった」
 俺の背負っている人物を見て、新八も驚愕の声をあげた。そりゃそうだ。葉桜の強さは俺たちが一番よく知っているってのに、その当人が死人みたいな顔で眠ってるんだから。

「葉桜!? ひでェケガじゃねーか!!」
「新八、一刻を争うんだ。先に里まで下りて医者をさがしておいてくれ!」
「おうっ! まかせときな!」
 荷物のない分身軽な新八が木立の間を駆け抜けていくのを見ながら、俺も後を追う。

「もう少しだ…! すぐに医者に診せてやるからな!」
「…ん…うるさ…」
 ったく、こいつは今自分がどんな状況かわかってねーから、そんな呑気を言えるんだ。

「ぜってー死なせねー!」
 葉桜はいつだって他の誰かが優先で、自分の命は二の次で。こんな優しいヤツがこんな場所で死んでいいはずねーだろっ!



p.4

8-希う力

(葉桜視点)





(空…じゃない。天井だ)
 木目の天井を見て、以前とまったく同じコトを思い出した。新選組がまだ壬生浪士組だった頃、入隊したてで大坂へ不逞浪士を取り締まりに行って、熱射病で倒れたことを。あの時ついていてくれた山崎はここにいない。冷たくて固い布団に寝かされて、薄い上掛けを三枚ほど重ねられて寝かされている。

「…ここ、は…?」
 自分のものではないような酷く掠れた声が出てきた。身体は再び指一本も動かせない状態で、顔を覗きこんでくる永倉はたいそう心配していてくれたらしい。

「気がついたのか、葉桜」
 覚えているのは冷たい土の上から、誰かーー原田に助けてもらったことだ。

「今、左之が駕籠呼んでるから。もうちっと寝てな」
 斎藤と別れる前にはもうほとんどの隊士が東へと抜けていた。だけど、本当に全員が無事に戦場を抜けられたのだろうか。自分は運良く原田に見つけてもらえたけれど、他に為す術もなく死んでいった多くの仲間を想うと心が痛い。

「オメー、人の心配してる場合じゃねェだろ」
 呆れきった声で言いながら、そっと葉桜の目元を拭ってくれる。荒れているけれど、とても強くて熱くて大きな手が気持ちいい。

「何も、できなかった」
「だな」
 同じ無力感を感じていていたのだろう。永倉が悔しそうに頷く。

「もうちっと早く着けていりゃあなァ」
「…それでも、きっと駄目だった…」
「なに弱気になってやがる」
「一時的に甲府城を手に出来ても、籠城戦は長く続かない。援軍もすぐには来られない」
 どの道、こうなる運命を変えることは出来ないのだ。そして、これから起こるコトも。

「たくさん、たくさんの命が失われてしまった。未来を担う命が斃れて、消えてしまった」
「何故、血を流さなければ時代を変えられないと考えてしまうんだ。何故、幕府のためなどと命をかけられるんだ。死んでしまったら何にもならないのに、どうして戦うんだ…っ」
 手を取り合う未来を考えてくれた人もいた。だけど、それを良しとしない者の手で斬られてしまった。

 目を覆い隠す手に従って、両目を閉じる。掌と声から響いてくる気配はとても優しくて。

「今は休め。何も考えんな」
 言葉は強制するものではなかったけれど、すぅっと素直に意識は闇に沈んでいった。

 耳の奥でいつまでに鳴り響く銃声と剣戟の音と断末魔の叫びが消えなくて、助けたくても剣を振る腕が無くて。そんな悪夢から目を覚ますと辺りは恐ろしいほどに静かだった。不安になるほどに、静かで。

「な、永倉…っ」
 怖くて、ただ怖くて声をあげると、襖が開いてすぐに永倉が顔を出した。

「おう、ここにいるぜ」
 近くにいてくれることが今ほど嬉しいと思ったことはなかった。呼んで答えてくれる。そんな当たり前が嬉しいなんて思ったのは久しぶりだ。

「一人にして悪かったな。白湯もらってきたんだ」
「…そ、そうか」
 子供のようなことをしてしまったという恥ずかしさで永倉から顔を逸らす。くすりと笑われた気がしてそっと彼を見ると、まるでいつもどおりで。恥ずかしがっている自分の方が馬鹿みたいだ。

「それから、食いもんも分けてもらってきた。起き上がれるか?」
 布団の中で軽く指が動くことを確かめてから、永倉の手を借りて、ゆっくりと上体を起こす。白湯を持つ力までは戻らない葉桜の手を大きな手で支えてもらって、冷ますために息を三回吹きかける。一口目を飲む前にちろりと舐めて、辞める。

「…熱い」
「待ってろ」
 今度は永倉がふぅふぅと息を吹きかけて冷ましてくれる。白煙の向こうで碗に息を吹きかけている様は、どこか微笑ましい。

「ほらよ。…なんだ?」
「いや、ありがとう」
 冷ましてもらった碗から一口飲んで、すぐに咳き込んだ。

「っけほ…っこほ…っ」
「お、おいっ」
「だ…だいじょ…っ」
 口元を抑えた手に咳をしてから、永倉に笑いかける。

「ちょっと身体が驚いただけだから。もう少しもらっていいか?」
「ああ」
 碗を支えてもらいながら、二口目を口に含み、ゆっくりと飲み込む。

「っけほ」
「無理すんな。ゆっくり飲め」
 頷いて、ゆっくりゆっくりと白湯を飲み干してゆく。

「…はぁ」
「辛いだろうけど、こういうときはささやかでも楽しいことを考えるんだ」
 不意に永倉がそんなことを言い出した。楽しいことと言ったら、いつだって皆がいた頃や、父様が生きていた頃のことばかりで。遠い過去のようで。

「あれが食いてェ、こんな着物が欲しい、どこそこに行きてェ。そんな願いが力になるんだぜ」
 京ではいつだって好きなことをして、好きなモノを食べたり呑んだりして、好きなように騒いで。あんな時はきっともう二度と返ってこない。だけど、望めるのなら。

「オメーは、無事に帰れたら何をしてェんだ?」
 あれだけ京にいたのに、そういえばやっていなかったことがあるのをぼんやりと想い出す。

「満開の…」
 父様を想い出すから、ずっと皆で騒ぐのは避けていた。だけど、もしもこの途方もない願いが叶うというのなら。

「満開の桜の下でお花見したい。父様のくれた瑠璃の着物を着て、烝にとびっきりに着飾ってもらうんだ。それから、お重に好きなモノばっかり入れてもらって、とっておきのお酒をもって。大好きな人、と、お弁当食べたり、歌ったり踊ったりして」
 それはもうありえない夢だ。最初は、たくさんの人がいた。色々あったけど、すごく幸せだったし、楽しかった。だけど、あの事件からみんな変わってしまった。石川が死んで、伊東が死んで、服部や他の御陵衛士も、それから、井上も。今、こんなことを考えてる私だってどうなるのか。もしも今自分が死んでしまったら、皆はどうなってしまうのか。

「一日中、騒いで…そのまま、桜の木の下で眠って…」
 一度目を閉じて開いたら、すべてが戻っていたらいいのに。みんな生きていたあの頃に、戻ってやりなおせたら。

「な、泣くな!! 俺がいるだろう!? 俺がオメーの夢、叶えてやっから泣くんじゃねェよ!」
「惚れた女の可愛い夢くらい叶えてやれねェなんて男じゃねェ!! 俺が全部叶えてやる!!」
 両肩を押さえてまくしたてる永倉を、両目を見開いて見返す。優しいのは嬉しいけど、どうしたって無理なことは無理だ。

「永倉…」
「だから一つだけ確認しときてェんだ」
 だけど、その気持ちはとても嬉しいから、ようやっと笑顔が浮かべられた。

「花見ん時によォ、隣にいる男ってのは…この俺でもいいのかい?」
 不安そうに、だけど思いっきりの期待をして窺ってくる永倉はなんだかカワイイ。身体が自由に動かせたら、きっと頭を撫で回していたかもしれない。返り討ちにあう覚悟は必要だろうけど。

 でも、今は微笑むだけで精一杯だ。大笑いしたら、きっと傷が痛い。

「もちろん、永倉も一緒にいてほしいに決まってるよ」
 この幕末で出会ったみんなでというのが無理でも、せめて今生きている皆と一緒に宴会ができたら、それだけでもう思い残すことはない。

「マジだな? 前言撤回は却下だからなっ」
「ふふっ、そんなことしないよ」
 葉桜の笑顔につられて、照れ顔を見せる永倉だったが、ふと気がつく。

「…待てよ。俺『も』ってこたァ…」
「近藤さん、土方さん、山南さん。それから総司に、斎藤に、原田に、梅さんに、烝ちゃん。あと、鈴花ちゃんと藤堂もみーんなで花見ができたら最高だなー」
「…っ」
 ダンダンと畳を叩いて悔しがっている永倉だったが、無邪気に笑っている葉桜をもう一度見つめて、ひとつため息を吐いた。

「なぁ、永倉は染井の里へ行ったことあるか? あそこの桜は特に見事なんだ。一枝にこう、溢れるように花がつくんだ。だいたい一週間で散ってしまうんだけどその散り様も見事で、前日まで満開だった花が一晩で全部落ちてしまうこともあるんだ。そりゃあもう見事でさ」
「そーゆーやつだよな、オメーはよォ…」
 永倉は自分の羽織を葉桜の肩にかけてくれて、それからずっと話を聞いてくれた。

 話を止めたら永倉がいなくなってしまうんじゃないか、一人になってしまうんじゃないかという不安を隠すように、葉桜はいつまでもとりとめのない話を続けた。

 あと少しだけ、と何度も自分に言い聞かせる。本当は直ぐにでも近藤や土方の無事を確かめたい。だけど、そこから先に永倉たちはいないのだ。だけど、どんなことをしてももうこの先の運命は変わらない。永倉達とはお別れだ。

「ああ、左之が戻ってきたな」
「え…」
「さっさと江戸に戻ろうぜ。あっちにゃ松本先生もいるしな」
 そっと自分を抱え上げてくれる永倉の胸元を強く握りしめる。震えてはいないけれど、終わってしまう時間が哀しくて、泣いてしまいそうで顔を伏せた。

「もう少しの辛抱だ、葉桜」
「ん」
 身体よりも心の痛みで震えてくる。もう、これで、最後なんだ。

「…有難う、永倉」
 いつも気がつけば側にいてくれて、背中を預けて戦えた。一緒に馬鹿騒ぎしたり、飲み比べしたり、時には互いに助け合ったりもした。余りに普通に隣にあったから、これから別の道を行ってしまうことがとても怖い。

 もちろん、近藤と土方だって強いし、背中を預けて戦える。だけど、それだけじゃなくて永倉は、本当に同じ位置で同じ目線で話せる最高の仲間だったから。

「礼よりも俺ァーー」
「近藤さんらもきっと無事だよね。早く会いたいなぁ」
「…オメー、今のは絶対ワザとだろ」
 別れの時なんて来なければいいのに。そう思うけれど、近藤はそれを良しとしない。彼の覚悟を変えるには、まだ時間が必要だから。

「そーゆーことをこんな時に言うのは卑怯だよ、永倉」
「卑怯って、オメーに言われたくねェなァ」
「はっ、私はいーんだよ」
「なんでだよ?」
「私だから」
「ワケわかんねェ」
「……」
「なぁ、泣いてんのか?」
「……」
「ったく、しょーがねェな」
 永倉の腕の中は温かすぎて、伝わってくる心は優しすぎて。どうしても葉桜は溢れてくるものを止められなかった。



p.5

9-混乱







 江戸に戻り、大久保主膳正邸に身を寄せた三人は食事と湯をもらい、頼み込んで一部屋に休ませてもらった。駕籠でもう一眠りする間に、無理すれば自分で動けるようになった葉桜は、湯屋で汗や泥だけを洗い流す。女中の手伝いも申し出てもらったけれど、丁重にお断りしたのは自分の体に無数にある傷のせいだ。恥じているわけではないが、心許す人以外には余り見て欲しくない。同情されるなんてまっぴらだ。

「…っ」
 痛みを堪えて、身体を擦り、お湯を被って身を整える。何度も何度もそうして、湯にはつからずに湯屋を後にした。そうまでして身体を洗い流しても、小さい頃からずっとあったこの血の香りだけは消えない。ここに来て更に酷く香っている気がするのだけど、そう思っているのは自分だけのようで、原田も永倉もこの邸の者たちも何も言わない。

 湯屋を出て直ぐの廊下で立ち止まり、刃の煌めきのような細い月を見上げる。欠けてゆく月を見る度に想うのはいつまでこうしていられるのかという不安で、満ちてゆく月を見る度に想うのはいつまで自分で在れるのかという不安だ。日を追う毎に濃くなってゆく血の香りに慣れてしまうのが怖い。命の重さを忘れてしまう予感が怖い。世界は怖いことばかりで、だけど縋るモノもヒトも何もない。

 いつまで、自分は狂わずにいられるだろうか。

 湯屋から戻ってきた葉桜は部屋の前でふぅと息を吐く。あまり暗い顔をしていては、永倉も原田も心配するだろう。これが最後の夜ならば、せめて笑顔でいようと決めて、襖を開けた。

「ただいまぁー、やっとさっぱりしたよー」
「おぅ、おかえり」
 寝転がっている原田の頭上を通り抜け、柱に寄り掛かっている永倉も通り抜け、葉桜は躊躇いなく窓を開け放つ。

「月が綺麗だよ、二人とも」
「寒いから閉めろよっ」
 原田の抗議を意に介さず、吹いてきた風に目を細める。

「いー風」
 しばらくの間は二人とも何も言わなかった。こういう静けさはイヤじゃない。話さなくても、何かが伝わるような気がする。その何かが二人を不安にさせるものでないと良いのだけど。と、そこまで考えてくすりと笑みがこぼれた。自分はいったい何を馬鹿なことを考えているのだろう。この二人はそれほど鈍感じゃない。おそらく、自分の不安を感じてくれているはずだ。

 くるりと二人を振り返った笑顔で、窓辺に寄り掛かったまま言の葉を紡ぐ。

「私、新選組が大好きなんだ。だから、幕府が倒れてしまったとしても、皆には生き抜いて欲しいと願ってる」
 生きて欲しいと、ずっと葉桜は繰り返してきた。その言葉の重みがどれほどか、誰にもわからなくても、言い続けてきた。でも、ねえ、本当はわかってるでしょ?

「知っていても知らなくても、きっと私はここへきたよ。そして、皆と出会った。知っているから変わった運命もあったけれど、知らなくても私は結局同じコトをしたと思うんだ。それが早いか遅いかだけの違いで」
「なぁ、憶えているか。入って翌日の早朝、道場で私はお前らを叩き起こしたよな。ほかの隊士はみんな一目散に逃げてったってのに、原田は向かい酒だ、とかって藤堂に飲ませようとして、私は永倉を蹴り起こそうとして、倒れたんだよな」
 ひとつひとつの想い出を憶えてる。本当にここまでいろんなことがあった。この二人といると長年の悪友といるみたいで、本当に楽しかった。

「今まで、本当に私はやりたいようにやってきて、沢山迷惑をかけたな。二人とも、すまなかった」
 頭を下げるでもなく、くすくすと笑いながら葉桜は言う。笑っていないと、泣き崩れてしまいそうで。終わりを、悟られてしまいそうで。いや、もしかしたら既にわかっているのかもしれないが。

「別に迷惑だなんて思ったことなんかねェよ」
「だな。そんな風に思うんなら、ここまで一緒にいねーっての」
 こうやって甘やかしてくれるから、その優しさに沿いたくなってしまう。でも、これ以上一緒に進めないってわかっているんだ。

「お、おいっ、なんでまた泣くんだよっ」
「…葉桜、おまえ…」
 笑っているのに目から溢れるモノは止まらなくて、止められなくて。心配をかけるとわかっていても、寂しさは消えなくて。

「永遠がないことぐらいわかってる。だけど、もっとみんなと一緒に居たい。もっといっぱい騒いで、いっぱい稽古して、いっぱい笑って、もっと、もっと…っ」
 後悔に意味なんて無い。過ぎ去った過去は戻ってこない。だけど、あの時梅さんを助けられていたら、きっと全てが変わっていたはずなんだ。きっとまだみんな一緒にいて、こんな状況でもなんとかなるって笑っていられたハズなんだ。あの時大石の気配に気づいていれば、私がもっと気をつけていれば。

 顔に何かが押し当てられる。それは洗い立ての手拭いだけど、見覚えがある。

「身体に障るぜ。もう余計なことは何も考えねェで寝ろ」
 さして力を入れたわけでもなさそうな永倉に軽々と抱え上げられ、葉桜も抵抗せずに布団まで運ばれた。掛け布団を引き揚げ、出て行こうとする永倉の袖を掴んで、見上げる。もっと一緒にいたいんだと目で叫んでいる葉桜を見て、何を想ったのだろうか。ただ永倉はあやすように笑って、葉桜の手を解いた。

「俺らは隣にいるからよ、何かあったらすぐに呼ぶんだぜ?」
 襖が閉められてからしばらくして、葉桜はそっと起き上がる。気配は殺したまま、窓から夜に身を隠して消えた。



p.6

(近藤視点)



 かたん、と窓から誰かが入り込んできた。

「誰だ!」
 近藤の誰何に影は答えず、膝をつく。灯籠の明かりは届かないけれど、その気配はよく知ったものだ。影は酷く心を揺らしていて、たぶん正気じゃない。

「心配いらねぇよ、近藤君。ーー遅かったな、葉桜」
 答えない影は近づいてきた松本先生を見上げ、迷いなく縋りついた。

「良ちゃん…っ」
「まぁたひでぇ怪我してやがんな。こっちに来い」
 手を引かれながら灯りの元へやってきた葉桜は、小さな子供のように泣きじゃくっていた。慣れているのか、松本先生は俺の隣に葉桜君を座らせる。

「…あたし、お別れ、したくなかったよ…っ」
「まあ待て、手当てが先だ。あんた、抑えててくれ」
「は、はい」
 掴んだ葉桜君の手は酷く冷たく、凍えていて、まるで氷水を被ってきたみたいだ。それだけ冷たいのも道理で、白装束にかろうじて瑠璃色の彼女の羽織を羽織っているだけ。いくらなんでもこの季節に夜歩きするしては寒すぎる格好だ。

「楽しかったんだ。本当に、父様が亡くなって以来、これ以上ないぐらいに楽しくて。本気で、守りたいって…っ」
「ほら、しっかり噛んでおけよ」
 差し出された手拭いをしっかりと咥え、葉桜君は静かになった。痛みのためではない涙を流し続けて、治療の間中、そのまま消えてしまいそうなほど泣き続けて。ひどく、荒れていた。

「よし、これで今日はいいだろ。あんたも離していいぞ」
 手を離した途端に、葉桜君は松本先生にしがみつく。小さな子が駄々を捏ねるように、縋りつく。

「お別れ、したくなかった…っ」
「しなきゃいいだろ」
「駄目だよ! そんなことしたら」
「…巻き込んでやりゃあいいじゃねぇか」
「良…」
「近藤君、こいつを頼む。ちっとばかし混乱してるだけだから、直に戻るからよ」
「良ちゃん…っ」
 慣れた対応で葉桜君を突き放し、松本先生は部屋を出て行った。追いかけようとする葉桜君を抱きしめても、俺を認識していないのか反応はない。ただ、俯いて、叫んでいる。

「葉桜君」
「巻き込むなんて、そんなことできない! だって、あたしは…っ」
「落ち着いて、葉桜君」
「あたしは…っ」
 これほどに錯乱している葉桜君を初めて見る。同時に、そこまで葉桜君の正気を失わせた者たちに嫉妬する。

 気がつけば、俺は自分の口で葉桜君の声を抑えていた。苦しげにもがくのを抑えて、大人しくなるまで深く口づけるつもりだった。

「んー」
 強く胸を叩く手を空いている手で抑え。

「~~~~~っ」
 静かになった頃に口を離したら、いきなり平手打ちを食らう。やっと正気になったことに安堵した。

「痛~ぁ」
「近藤さんのバカーっ」
「ああ、正気に返ったね。良かった良かった」
「ぜんっぜん良くありません! なんで急にこんなことっ」
 騒ぎ始める彼女を今度こそしっかりと腕に収める。聞こえてくる、鼓動の音も息遣いも声もすべて。

「無事で、良かった」
 俺の大切な葉桜君のままだ。

 腕の中で騒いでいたのがまた静かになって。どうしたのかと腕を弛めると、彼女は腕の中で哀しそうに笑った。

「もう忘れちゃったんですか? 近藤さんが守ってくれているから、私は死なないんですよ」
 幕府がある限り、その命に果てはないのだと。あんまり哀しそうに笑うから、その額にもう一度音を立てて口づける。

「ごめん」
 本当はわかっている。生きていることでどれだけ葉桜君が苦しんでいるのかということも、置いていかれる哀しみにその心は占められているということも。そして、どんなについてきてくれても、俺はきっと君をおいてゆくのだろうということも。

「本当に、ごめんな」
 手放してしまえば葉桜君は楽になるのだろうけど、だけど出来るだけ最後までそばに置いておきたいと思ってしまうのは俺の我侭。

 わかっているのかいないのか、葉桜君は俺の胸に顔を押しつけて囁く。

「謝らないでください。全部、わかってますから」
 俺がずっと一緒にいられないとわかっていても、同じ言葉をくれるのかな。

「近藤さんが望まなくても、私は近藤さんを生かしてみせます」
 強い言葉に髪を撫でようとしていた手を止める。全部、知っているとそれは言っているようで。

「どうか」
 ずっと繰り返し続けているその言葉が途方もない願いなのだと、葉桜君は気がついているのだろうか。それが、果てのない願いだと、気がついているのだろうか。小さな子供のように純粋で、そして儚い願いなのだと。

「私を愛してくれるなら、生きて。その気にさせてみせてください」
 腕の中で華開くように、どうして俺なんかにそんなに無防備に笑ってくれるんだ。だから、俺は。

 笑っている葉桜君の顔を静かに雫が流れ落ちる。キラキラと光っているそれはとても綺麗で純粋で、俺なんかに触れられるようなものじゃない気がする。

「近藤さんの生きる道はきっとあります。新選組の皆で幸せに生き抜く道も、きっとありますから。だから、絶対に諦めないでください」
「…葉桜君」
「約束、してください」
 差し出された小指は普通の女性よりは荒れていて、傷も多い。だけど、その傷は葉桜君が必死に俺たちを支えてくれた証だと知っているから、俺は綺麗だと思う。小さなその手を空いている手で包み込む。

「…近藤さん」
 違うんですと呟く葉桜君を胸に強く抱きしめて囁く。

「もしも、俺が」
 俺がすべての罪を引き受けたら、葉桜君はきっと怒るだろう。だから、それを伏せて別の言葉で囁く。

「約束すると答えたら、葉桜君は俺の手をとってくれるのかい?」
「そういう道もあるということです」
「ははっ、その答えはずるいなぁ」
「う…。これまでそんなことを考えたこともなかったんですから、大目にみてくださいー」
 真面目に、ちゃんと考えますから、と。それはいいんだけど。

 葉桜君が何かを隠しているような気はしている。伏見の戦い以来、ずっと彼女が悩んでいたことには気がついていた。だけど、絶対に彼女が口を割ることはないだろう。弱音を出すとかではない。時折言葉の端々に「巻き込んでしまう」と織り交ぜられていることから、きっと俺たちを想って、話さないのだろう。

 烝から彼女の背負う役目について、聞いてもいる。徳川を支え続けてきた影の巫女、業の浄化、その為に残ってゆく傷痕。それから、彼女自身から聞いている「死なない」ということ。徳川の為だけに生きている彼女は役目を終えるまで決して死なないと言って、どれほどの大怪我をしてもけろりと笑っていた。

 じゃあ、もしもこのまま幕府が滅んでしまったら、葉桜君はどうなるのだろう。

 それを考え、一つの答えに思い当たったとき、俺は心が凍り付くようだった。もしも俺が葉桜君なら、きっと同じコトをすると思った。大切な人を守るためなら、この命など惜しくはない、と。

「痛…っ」
「あ、ご、ごめんっ」
 知らずに力を込めてしまった腕を弛める。まだ温かなこの存在が消えてしまうコトだけは、絶対に避けなければならない。

「…近藤さん?」
「本当に、ごめん。だから、もう少しだけここにいてくれるかい?」
 嫌がってもずっといますと笑顔で答えてから、小さな子がそうするように俺にしがみついた。意識も何もないその行動に愛しさが増して、俺も今度は柔らかく抱きしめる。髪を撫でれば、安心したように力を預けてくれて、程なくして寝息が聞こえてくる。

「…今度は、俺が守るから」
 眠っている愛しい姿にそっと口を重ねる。

「無茶は控えてくれよ?」
 きっと頼んでも大人しくしてくれないだろう彼女はすぅすぅと穏やかな寝息を立てていた。



p.7

10-それぞれの道

(葉桜視点)





「あ、会津にゃ行かねェだァ!?」
 隣の部屋から聞こえる大声で目を覚ました。それはつい昨日まで行動を共にしていた仲間たちだ。寝起きの頭で状況を整理し、はぁと息を吐く。がしがしと頭をかいてから、衣服を整える。その間も、彼らの話は聞こえてくる。

「こいつは最高指揮官である俺の決定だ。きみたちにどうこう言う権利はないぜ?」
「近藤さん、何だよ、その言い方は? あんたマジで言ってんのか?」
「ああ、マジだぜ。俺についてくるなら俺の命令には服従してもらわないとね。きみたちごときの意見を聞き入れたら、若年寄格であるこの俺の面目が立たない」
 下手な演技に苦笑しながら、紅の結い紐ひとつで高く髪を結い上げる。

「な…!」
「こ、近藤さん…!」
「もしも俺の家来になるってんなら話を詳しく聞いてやってもいいんだけどなぁ?」
 これが演技だとわからないようなら、これから先も永倉たちと会うこともないだろう。だけど、そうでないなら。

「分かったよ、近藤さん。俺たちはここで、あんたと袂を分かつ。こっから先、俺たちは俺たちの信じる道を歩むぜ」
 至極あっさりと引いた永倉の言葉に、葉桜は襖にかけようとした手を止めた。自然と浮かんでくるのは笑顔で、ああやっぱり最高の仲間だ、と心の中で頷く。

「そうかい。じゃあ二度と会うことはないだろうね。それじゃ俺はこれで」
「あばよ」
「ああ。あの世で待ってるぜ」
 近藤は嘘が下手な人だと思う。そんな真っ直ぐで不器用な彼をみすみす死なせやしない。その為に、自分はここに居るのだから。

 永倉らがいなくなった後でくすくすと笑いながら、襖を開ける。

「ふふっ、私も家来にならないと連れていってもらえないんですか?」
「俺の言うことを素直に聞いてくれる君じゃないだろ?」
「まぁね」
 難しそうな顔をしている土方に笑いかける。

「土方さんも、よかったんですか? あの二人を行かせてしまって」
「それが近藤さんの決めたことだからな」
「まあ、そういうことにしておきましょう」
 本当は別れたくなどない。だけど、今はきっと葉桜にも土方にも近藤の心を変えることは叶わないだろう。そんな状況でもないけれど、くすくすと笑いが零れてくる。

「それにしても、下手な演技ですねー。あの二人が大人しく騙されてくれたのが信じられないぐらい」
「……」
「まぁ、私がそこにいたら絶対に騙されてあげませんけどね?」
「…葉桜君」
「土方さんだってそうでしょう?」
「ああ」
「…トシ、おまえも俺みたいな能無しは早めに見限っちまった方がいいぜ?」
「そりゃ余計なお世話ってもんだぜ。どれだけ嫌われようが俺はあんたについてくつもりだからな」
 どんなことをしてもついていくという気持ちに違いのない二人に見つめられ、近藤は笑いながら諦めの息を吐いた。

「はぁ~あ、まいったね、どうも」
 そう、どんなことをしてでも。

「最初から言っているでしょう? 私は近藤さんについていくって決めているんです。近藤さんにどれだけ嫌われようが、憎まれようが、そばを離れるつもりはありませんよ」
 言い切ったそれに近藤の方は真剣な目で返してくる。

「バカ言わないでくれ。嫌いになんかなれるワケないじゃないかっ」
「…あの、直で返さないでください…」
 ただの冗談なのにと呟くと、葉桜君が悪いとあっさり言われてしまった。そんなことはないと思うんだけどなーと土方に視線をやると、眉間に手をやっている。

「そこまで言うなら、しょうがないか。これからも、よろしく頼むぜ、二人とも」
 もちろんですと満面の笑顔で頷くと、照れくさそうな笑顔が返ってきた。



p.8

 晴天の元、松本良順の医学所から出て行った彼らを見つけるのは容易い。

「おーい、永倉、原田ー!」
 橋の手前で話し込んでいる永倉らに駆け寄ると、二人は驚くこともなく不機嫌そうに葉桜を迎えてくれた。

「やっぱり近藤さんらのトコにいやがったんだな」
「勝手に出て行きやがるから、左之のヤツ、すっげー心配してたんだぜ?」
「なっ、そりゃ新八も同じだろっ?」
「俺はオメーが近藤さんらのトコへ行くってわかってたからな」
 喧嘩を始めかける二人に素直に頭を下げる。

「勝手だとは思うけど、近藤さんを許してくれ。本心じゃないって、二人ともわかるだろ?」
「葉桜…」
「なんで、オメーが謝んだよ」
「今の近藤さんはきっと他の道を考えられなくなっているんだ。それをきっと私が変えてみせるから、だからっ」
 そのときは戻ってきてくれないか。そう言おうとして、やめた。これは自分が言うコトじゃない。あそこまで言った近藤が自分で言うべきコトだ。ああ、だけど、そのときに本当に言ってくれるだろうか。ーー自信はない。

「葉桜、おまえ、病み上がりでまた無理してやがんな」
 ぐいと原田に二の腕を掴んで支えられ、葉桜は自分がふらついていることを知る。

「俺らだって、あれが演技だってことぐらいわかってるぜ。近藤さん、先に死ぬつもりなんだろ? 敵さんが血眼になって追っかけてるのは坂本暗殺の首謀者である新選組の近藤だ。敵さんの中には、そう信じ込んでるヤツも大勢いるからな」
 優しい言葉に頷く葉桜の頭を、永倉が乱暴に撫でる。

「あの人、優しすぎるんだよな。俺たちを巻き添えにしたくねぇって考えがバレバレだったぜ。そもそも、あんなクセェ演技でだまされるワケねぇんだよ。一緒に死んでくれって言われりゃ、喜んでついて行ったのによ」
 原田の苦笑混じりのそれにぎょっとして、慌てて葉桜は反論した。

「そんなの私が許さないっ!」
「たとえ話だぜ、葉桜。そうムキになんなって」
「…冗談じゃないよ。それじゃ、私のいる意味がないじゃないかーっ」
「泣くか怒るかどっちかにしろよ」
「うーっ、原田が、ヤなコト言うから悪いっ」
「あーはいはい。俺が悪かったから、泣きやめ。とっとと」
「むーっ!」
 押しつけられた手拭いで涙を拭いている葉桜を眺め、永倉が続ける。

「まあ、近藤さんも同じだろ。俺らを巻き添えにして、死なせたくなかったからあんなこといったんだろうさ」
「永倉…」
 やっぱりわかっていたんだ。どういう想いで近藤があれを口にしたのか、わかっていて。それでも、駄目、なのか。

「オメーは、これからも近藤さんについていくんだろ?」
「もちろんだ。あの人は私が生かしてみせる」
「んじゃ、決まりだ。さっさと戻れ」
「…?」
「成り行きとはいえ、俺たちは近藤さんとは袂を分けた。一緒に戦ってはいけねェよ」
 ああ、本当に本当の別れの時がきてしまった。これから先の見えない未来、別々の道を行かなければならないんだ。そう想うとまた瞳が潤んでくる。そんな葉桜の頭を、永倉は片手で胸に押しつけた。彼特有の男の匂いが強く薫る。

「まあ、そう寂しがるな。離れてたって、俺の気持ちは変わらねェからよ」
 後の部分は原田に聞こえないように耳元で囁かれ、瞬時に葉桜の顔が紅くなった。

「な、永倉…っ」
「次に会ったら、本気で口説いてやるからな。覚悟しとけよ?」
「な、な、なー!?」
「はっはっはっ」
 永倉が呆れかえっている原田と肩を組んで歩きだす。

「だけどよォ、このままじゃ俺たちだって、不完全燃焼だ。もうひと暴れしねェか、左之?」
「ああ、面白そうじゃん」
 欄干に手をかけて、二人を見送っている葉桜を一度だけ振り返る。

「近藤さんとは違う道を歩いてくことにはなったけどよ、それでも心ん中で見据えてる夢はおんなじだと信じようぜ」
「永倉っ、原田っ」
 葉桜のかける声に手を振り返し、二人はそのまま歩いていってしまった。その姿が点のようになってから、葉桜ははぁと息をつく。

 宣戦布告された気分だ。だけど、生きていてくれるなら。

「絶対、生き残れよ。口説きに来るの、待ってるから」
 聞こえないとわかっていて、小さく呟く。別れの言葉は互いに口にしなかった。それを再会の約束と信じて、葉桜は医学所へと戻った。

 その後、永倉と原田は靖兵隊を組織し、近藤たちとは異なる戦場に向かって行ったのだった。



あとがき

6-仇討


平鈴のこのシーンが好きです。
だから、そういう設定にしました。
むちゃくちゃを言う平助が可愛くてしかたありませんーっ
なんであんなに可愛い生き物なんですか、平助はっ!
長い本編ですけど、次の更新に続きます。
書きすぎですか?
(2007/1/9 17:49:45)


7-瀕死


Web拍手とかだと書きやすいのになぁ、原田。
単純にこのヒロインが原田向きじゃないからか?
(2007/1/10 01:11:56)


8-希う力


長いなー。ほんと、長いなー。
その上報われないなー永倉さんは。
(2007/1/10 21:35:00)


9-混乱


例の状況で別れても良かったんですが、勝手にヒロインが抜け出してしまいました。
土方さんの出番がないなーぁ。
(2007/1/11 09:48:06)


10-それぞれの道


長い本編を読んでくださって有難うございます。
最長記録更新ですが、まだまだ話は続きます。
やっと十七章が書ける…!
永倉と原田の両方がいるのに、原田の影が薄い気がするのは気のせいではありません。
でも、あとできっと永倉に聞きにくいことを聞こうとして失敗するんじゃないかなー。
んで、VSとかになっててくれると楽しいなぁ(ぇ。
まあ、それもそのうち書けるでしょう。
次回は人が少ないんで、近藤&土方満載になります。
おたのしみにー。
(2007/1/11 10:43:35)


~次回までの経過コメント
近藤
「ふぅ…しばらくここで態勢を整えるとしようか」
「そのうち、トシたちも合流してくるだろうさ」