幕末恋風記>> 本編>> [慶応四年弥生] 17章 - 1-大久保大和

書名:幕末恋風記
章名:本編

話名:[慶応四年弥生] 17章 - 1-大久保大和


作:ひまうさ
公開日(更新日):2007.1.31 (2007.2.7)
状態:公開
ページ数:9 頁
文字数:22974 文字
四百字詰原稿用紙換算枚数:約 15 枚
デフォルト名:榛野/葉桜
1)
1-移り香:揺らぎの葉(139)
2-移転先:揺らぎの葉(140)
3-大久保大和:揺らぎの葉(141)
4-下総流山:揺らぎの葉(142)
5-勝海舟:揺らぎの葉(143)

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p.1

1-移り香



 慶応四年弥生。今月、近藤は死ぬ。それは揺るぎないのだとでも言うように、はっきりと例の紙に現れている。だが、それよりも前からだんだんと浮かんでくる光景がある。山南の時以来だから、最初は気のせいだと思っていた。

 かつて新選組の隊服の色とされた浅葱色の空、そして、鮮やかな赤。

 こういうものがちらつくときは良くないに決まってる。紙に書いてあったのは切腹でも暗殺でもなく、斬首。それも、才谷暗殺の首謀者としてだなんて。

「あれ、葉桜君。まさか待っててくれたの?」
「まさか~」
「だよねぇ」
 局長室として割り当てられた部屋の前の縁側で休憩をしていたら、近藤が出先から丁度帰ってきた。訓練のためというわけではないがいつもの姿の上にたすき掛けをしていて、首に手拭いをかけている葉桜を見て、はぁと深いふか~いため息をつかれる。これで気にならない方がおかしい。

「なんですかー?」
「どうせなら、女姿で出迎えてくれた方が嬉しいんだけど」
「はぁ? だから、待っていたわけじゃないんですってば。今は訓練の休憩中。あと半刻もしたら、次の訓練です」
「そりゃあ、残念だなぁ」
 残念と言いつつ隣に座り、寄り掛かってくる体が重い。それにさっきまで訓練をしていたし、お風呂も入っていない。きっと自分の内にこもる血の匂いに気がつかれてしまうことだろう。

「離れてください」
「俺も休憩~」
 ぐぐぐっと力で押し返そうとしても、どうやら近藤の方でも力を加えてきているらしい。

「はーなーれーてーってばっ」
「なんで」
「だって、」
 なんて、言えばいい。誰も気がついていない。ただ自分が気になるだけなのだ。近藤のことだから、別にそんな匂いはしないと言うだろう。だけど。

「だって? 続きは?」
 顔を寄せられ、体を反らせる。

「汗、かいてるし」
「そう? じゃあこれは香の匂いなのかな」
 首筋に近藤の息がかかり、思いっきり息を止める。そんなに近寄らないでくださいということもできなくて、かといっていつのまにか両手を押さえられていて。何も出来ない。

「葉桜君はいつも甘い香りがするんだよね」
「!! は、離れてくださいっ」
「甘いんだけど、すごく清々しい…何の香?」
 香なんて焚きしめる面倒をしたことはない。宮にいれば自然と用意はされるが、出てからは匂い袋だけを持たされている。

「こ、近藤さんっ」
 他に思い当たるとすれば、過去に一度だけ同じ事を言われたということ。今はいない人に「甘い血の匂いがする」と。

「葉桜君?」
 今の自分の顔を見られたくなくて、必死に背ける。だけど、両手は掴まれていて、それに思い出すだけで蘇るあの時の恐怖に感情が支配されてゆく。決して気がつかれてはいけないのに、震えが、止まらない。

 ずっと自分だけだと思っていたのだ。血の匂いなんて気のせいだと、父様だって言ってくれた。だけど、あの時に気がつく人もいるのだと思い知ってしまったから。自分の体が刀を奮う度、命を奪う度に血で穢れていってしまうことはいい。それとわかっていてやってきたのだから。だけど、自分の好きな人がそれで離れていってしまったらと思うと怖い。血の匂いのするような人間と誰が進んで共にいてくれるだろうか。穢れてゆく自分に、人を求める資格なんて。

 肩に温かさと苦しさがあって、次いで項に近藤の吐息を感じる。

「ああ、想い出した。これは、吉野桜の香りじゃないか?」
「…桜?」
「うん。前に見せてもらったことがあってね。一枝にもっさりと薄紅の花をつける見応えのある桜だよ。開くときはどれも一斉でね、散るのも早いんだって」
「染井の、里桜、?」
「確か、そんな名前だったよ。見たことある?」
「…何度か」
 父様と毎年見に行った。だけど、亡くなった後は遠目で眺めることしか出来なかった。あの場所は想い出がとても濃くて、いないことが哀しいから。知らず手に力が篭もる葉桜を小さく笑い、近藤は壊れない程度の力を腕に込める。

「梅のように強くはないけど、葉桜君によく似合う香りだね」
(梅香も合うが、葉桜にはこっちのがいいな)
「でも、」
(だけどよ、)
「桜のように」
(潔く)
「消えたりしないでよ」
(消えたりすんじゃねーぜ)
 父様と同じ言葉を囁かれて、不覚にも懐かしさで涙が溢れた。追い打ちをかけるように軽く背中を叩かれて。泣いても良いよと言われて。だけど、これ以上泣いていられないから顔を上げて笑う。

「匂い袋を持っているんです」
 問われないように注意して続ける。

「気に入ったのなら、一つ差し上げましょうか?」
「へぇ~、匂い袋ねぇ。なんだか意外だな。葉桜君はあまりそういうものを持たないのかと思っていたよ」
「私だって、なりはこんなでも一応女ですからね。小さい頃から持たされているんです」
 取り出すためには離れなければならなのに、近藤の腕は一向に緩まない。

「あの、近藤さん?」
「なんだい?」
「離れてくれないと、匂い袋出せませんよ?」
「ああ。いいんだ、このままで」
「は?」
 だから取り出せないって言っているのに、近藤は尚も強く抱きしめてくる。

「だって、移り香のほうが色っぽいでしょ」



p.2

(近藤視点)



 あんまり震えていたから、俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだろう。だけど、不謹慎ながら震えている姿がなおいっそう愛しくて、腕を伸ばして抱きしめる。甘い匂いを辿ると言うよりもその真っ直ぐな髪の間から垣間見える肌に吸い寄せられる。

 その香りは覚えがあった。そんな話をするとますます葉桜君はただの小さな女の子のようになって、しがみついてきて。だけど、その後で濡れた瞳を上げて彼女は微笑んだ。そういう顔されると、俺が俺を抑えがたくなるっていうのに。何度言っても本人に自覚がないのが一番困るぜ。

 だから、少しだけ意地悪をした。匂い袋をくれるという彼女をもっと強く抱きしめて、囁く。

「移り香の方が色っぽいでしょ?」
 普通はこれで恥ずかしがって騒いだり、抱きしめかえしてくれたりするもんだと思うんだよ。だけど、俺は腕の中にいるのが葉桜君だってことをずいぶん失念していたようだ。反応のない彼女を心配して、ほんの少し腕を緩めた隙に。

 思いっきり鳩尾を殴られた。

「何を馬鹿なコト言ってるんですかっ」
「ひ…ひど…っ」
「そんなこという人にはあげませんっ」
「だから俺は葉桜君といられれば十分だって言って」
 もう一度拳を構える葉桜君を前に、あっさりと降参する。だって、彼女の拳は本当に痛いんだ。手加減してくれてるのかどうかはわからないけど(してくれているといいんだけど)、俺が怪我してるかどうかなんて気遣いは一切無くて。その手加減も容赦もしない葉桜君の、普通、なトコがやっぱり好きなんだ。いつもの強気な葉桜君も、時々ひどく脆くなる弱さも、消えてしまいそうな儚さも全部、好きだから。

「~~~訓練に行ってきます!」
「いってらっしゃ~い」
 庭へ飛び降り、そのまま駆け去ってゆく葉桜君の耳が赤いように見えたのが気のせいじゃないといいと思いながら部屋へ足を向けた。が、その手前で立ち止まる。

「どうしたんだい、トシ。そんなところで」
「…いや、なんでもねぇ」
 廊下の端でずっと立ち止まっていた彼は何食わぬ様子で近づいてきて、俺より早く部屋へ入った。ずっと見ていたはずだけど、何も言わない。それは俺に気を使ってのことなのだろうか。

「ここのところ、葉桜君は人気者みたいだね」
「ああ。毎日、新入隊士の面倒を見てやってるようだからな」
「昔はあんなに面倒くさがってたのにねー」
 ほんの一年前までは毎日縁側に座ってお茶かお酒を傾けながら、呑気に過ごしていた。そうしていると、いつも誰かがやってきて、彼女と少し話をしては去っていく。葉桜君はその後ろ姿を少し淋しそうに見やりながら、いつも何かを考え込んでいた。

 彼女の憂いは幕府や日本といった枠組みに捕らわれるものではなく、いつだって未来について考えていた。目に映るすべてを救いたいのだと言っていた。本人もそれは無理だとわかっているんだけどと笑って誤魔化していたけど、それでもかなり本気だったことに間違いはない。

「この間、彼らと賭けをしていたよ。一本とれたら相手をしてやるんだって」
「あいつはまた、そうやって遊んでやがるのか」
「まぁ、このぐらいは大目に見てあげようよ。実際、彼女のお陰で俺らも自由に動けるしね」
 葉桜君が隊士たちの面倒を見ていてくれるから、俺たちは安心して、ほかのことをする時間が出来た。とても有難くもあるけれど、そのせいで彼女と過ごせる時間が減るのだけは解せない。

「しっかし、これだけの大所帯になっちまうと、訓練ひとつ満足にできやしねぇなぁ」
 彼女だけで訓練が事足りるような状況でもない。人を育てる能力がいくら高くとも、一人で訓練を見てやれる人数というものには限りがある。

「そうだな。近隣の住民からはすでにかなりの反感を買っているようだ」
「そっか。もうちょっと訓練に適した広い場所へ移った方がいいよな」
 この五反田新田ではあまりに今の人数で訓練するに狭すぎるというのも難問だ。

「松本先生から、別の場所に移動できるようにお願いしてもらおうかな。訓練されてない兵士は頭数に入らねぇ。そのことは甲府で嫌というほど思い知ったからな」
「そうだな。あれでは連れて歩くだけでも気の毒なものだった」
 トシもあの時のことを思い出したのか、眉根を寄せる。あの戦いは多くを失い、多くを学んだ戦いだった。そして、覚悟を決するには十分な戦いだった。あれから俺たちも葉桜君も選んでここにいて、永倉君や原田君、斎藤君も選んで別の地へと赴いていった。

 失ったものは確かに大きい。だが、残っている俺たちに嘆いている時間はないし、今はもうただ前に進む道しか見えない。

「よしっ! 明日にでも、松本先生にお願いしに行こうか!」
 話がまとまったところでゴロリとその場に横になる。狭いけど、それぐらいの余裕はある部屋だ。

「なんだか懐かしいなー。ここはなんだか八木邸を思い出さねぇかい?」
「…近藤さん」
「どうしたら、葉桜君はあの頃のように笑ってくれるんだろうなぁ」
 応えが聞きたかった訳じゃないから、そのまま両目を閉じた。それだけでいつでもあの頃の皆の姿を、とりわけ葉桜君の姿を思い浮かべられた。最初はあんなに不敵で、女丈夫で、頼もしい笑顔だったのに。いつから、あんな風に笑顔を作るようになったんだろう。残された時間で俺はそれを取り戻せるだろうか。

 もしも俺には出来なかったとしても、いつか彼女が本当に心から笑える時代が来ると良い。俺は、そう希う。



p.3

2-移転先

(葉桜視点?)



 目を閉じていると辺りはまるで昔に戻ったかのように思えるその場所で、葉桜は背筋を伸ばし、その人を待っていた。進んでここへくることは少ないが、呼び出しに応じないということはない。何より、自分の主治医として何年も面倒を見てくれたこと、医術の手解きをしてくれたことは感謝してもしきれないのだ。逆らうという選択肢は葉桜にない。

 隣の部屋から聞こえる話し声は近藤と土方のものだ。同じ時に呼び出すということは彼らに関わることで、新選組としてではない協力を自分に仰ぐためだろう。

「というワケで、屯所を移動させるために、ご協力していただきたい次第で」
「だろうなぁ。そんな状況だと、ちとキツイよな。いいぜ、一応話はしておこう」
「ありがとうございますっ!」
 屯所を移動することは容易ではない。何より、勝海舟は許可しないだろう。新選組が動いてしまえば、恭順派としての道に翳りが生じる。

「ただし、あんまり当てにはしねぇでくれ。今、旧幕府はあんたらを疎んじてるからな。なにしろ、やつらは新政府とコトを構えたくねえって腹づもりだ。許可が出ればめっけもの、って程度に考えといてくれ」
「もし、許可が出なかったとしたら、我々はどうすればよいのですか?」
 窓から感じる視線に顔を向ける。と、小さな女の子がこちらをじっと見つめている。笑いかけると一度隠れ、またぴょこんと顔を出した。手招きするとまた隠れ、誰かの手を引いて近寄ってくる。

「まあ、方法としちゃ色々ある」
 その間も隣の部屋の話は続いている。

「大きな声じゃ言えねぇが、ある程度勝手に目星をつけて、移動しちまうって手もある」
「つまり、幕府に無断で?」
「まあ、この手は、あんたらが勝てる算段を持ってる場合に限られるけどな。下手すりゃ、その後は幕府の脱走軍扱いだからな」
 近寄ってきた子供の目の前で髪紐を解き、それを輪にする。ここで無理矢理療養させられているときに教わった綾取りは、今も結構覚えているモノだ。橋を作り、差し出すと子供がそれをとり、また葉桜がそれをとり…とやっているところで襖が開く。

「おぉい、何してんだ」
「あやとり。あ、そことっちゃ…あぁ、そんな手が!!」
 得意そうな子供の頭を撫でつつ、襖の向こうに顔を向けて微笑む。

「話は終わりました?」
「終わってたら、おまえを呼ばねぇよ。それより、葉桜は良い場所知ってんじゃねぇかと思ってよ」
 そんなことだと思った。

「知ってますけど、協力してくれるかどうかは別ですよ。父様と会いにいったことはあるけど、相手が覚えているとも限りないし、何よりこの状況でしょ? 父様の友達に迷惑かけるのも」
「そっちじゃなくて、お役目の方で、だ」
 何を言うんだ、と顔を向ける。

「…なおさら駄目です」
 役目を出せば逆らえない人たちがいるのも事実だ。だが、そんな風に彼らを使いたくないのが葉桜の本音なのだ。おそらく嫌がられることがないとしても、彼らの評判が落ちて、幸せを逃す状況だけは避けたい。

 葉桜の考えをわかっているのか、良順はひとつ息を吐いて、近藤らに向き直った。

「とりあえず、頼んではおこう。期待はしねぇでほしいがな」
「分かりました」
 立ち上がると残念そうにしている子供らにまた来ると微笑んで、近藤らと連れだって医学所を後にする。二人は、葉桜を気に留める素振りもなく先に立って歩く。

「やっぱ、見込みないんだろうな。松本先生なら必ず伝えちゃくれるだろうけど」
「状況は悪化しているということだろうな」
「松本先生の言葉が通ることを祈るしかないか。それはそうと、トシ」
「ああ。今の隊士全員を収容できる移転先を探しておこう」
「さすがだな、トシ。やっぱおまえは頼りになるぜ」
 確かに自分は駄目とは言ったけど、そう簡単にあっさりと諦められるのはムカツク。だから、大きな一歩をとって、二人の間に割り込み、それぞれの腕をとった。

「近藤さん、土方さんっ」
 流石に二人はこのぐらいでぐらつかない。わかっていてこちらもやっている。

「一つだけ心当たりがあるんで、一日お休みをいただいてもいいですか?」
 迷惑をかけることになるのは承知の上だ。一日の休みを葉桜がとれば隊士たちの訓練にも支障が出るし、葉桜が会いに行くことで面倒を抱えることになる人たちもいる。

「いいの、葉桜君?」
「いいも何も、役目がどうあろうと私も新選組の人間です。少しぐらい頼ってください」
 だけど、今の自分にとって何よりも大切なのは新選組だから。その為なら、どれだけ悪者になってもかまわない。

「だが、おまえは…」
「もしかすると一日ほど戻るのは遅れるかもしれません。でも、絶対に帰ってきます。だから、待っていてください」
 物事に絶対ということは決してない。だけど、だからこそ言いたいのだ。成し遂げられると信じてくれれば、きっと自分にはやれるから。

「いいですね?」
 二人の腕を離し、また更に大きく前へ出る。

「じゃ、行ってきます」
「え、今から?」
「ふふふ、私がいなくても淋しがらないでくださいね~」
 そのまま走って二人を置いて、走って走って走り続けて、関所手前で息をつく。流石にこれだけの距離を走り続ければ息も切れるし、疲れもする。だけど、休んでいる場合じゃない。

「はぁ…早駕籠でも調達するかなぁ」
 道端の木に寄り掛かり、息をゆっくりと整えてゆく。休んでいる場合じゃないけど、このままじゃ体の方が持ちそうもない。五年前に比べて旅をしなくなったせいなのか、終わりが近いせいなのか。それとも自分が鍛錬をサボっていたせいなのかわからないけれど、確実に体力は減っている。

 残された時間は少ない。だけど、出来る限りの力の権力を利用して、新選組を救いたいのが本心だ。だから、もう一度立ち上がる。諦めるにはすべてが早すぎるのだから。

「近くに駕籠屋なんてあったかなー」
 ふらりと風のように体を揺らして、葉桜は道を流れて消えた。その行く先を知るものは誰もいない。



p.4

(近藤視点)



 松本先生の元へ行った数日後、金子邸に一通の書状が俺宛に届けられた。葉桜君はまだ戻らない。

「…うーん」
「どうだった? 幕府は移動について何と言ってきている?」
「はは、とにかく、このままここにいろってさ。また知らせを送るって書いてはあるけど、多分このままシカトだな。松本先生のことだから、限界まで努力してくれたはずなのにねぇ。いよいよ俺たちも見捨てられたかな」
 部屋から見る空はとても狭い。限りのある空しか、今の俺には見えてないってことなのか。それとも、本当にこれ以上は無理なのか。

 今どこで彼女は何をしているのか。幕府が消えゆく今、関わりたいと思う者は少ないだろう。そんな中で葉桜君は何を頼りにしているのだろうか。今ココにいてくれたら、聞けるのに。

「で、どうするんだ?」
「待つさ、あと一回くらいはね。だけど、二回目はねえな」
 いつもどれだけ側にいて、俺を支えてくれていたのか。わかっていたつもりで、俺はわかっていなかった。意見が聞きたいと言うだけじゃない。たった数日離れていただけなのに、今すごく声が聞きたい。この腕で、抱きしめたい。囁いて、恥ずかしがる葉桜君の顔が見たい。

「トシはもう移転する候補地の目星はつけて」
 あるんだろ?と続ける前に、馬の嘶きが響き渡った。それから懐かしい葉桜君の怒鳴り声。苦手な馬に乗っているということは、それだけ急いできたということだろう。

「やっと戻ったか。心配させやがって」
 安堵するトシに笑いかけながら、俺も胸を撫で下ろす。

「ああ、約束よりは遅れたけど、」
 バタバタと廊下を走ってくる足音に二人で迎える態勢を整え、だけど葉桜君が姿を現した途端に二人共が固まってしまった。

「すいません、遅れました!!」
 出掛けていったときは瑠璃の羽織で男装だった。だけど、今の姿はまるで。

「こんな格好で失礼しますっ」
 まるで、本物の白拍子みたいだ。立烏帽子こそ無いとはいえ、白子袖に紅の単、紅の長袴、白水干を着て、腰には愛用の太刀を帯び、手にはいつもの扇子を持って。それを白拍子といわずしてなんといおう。加えて、これがまた妙に様になっている辺り、やはり彼女は太刀の巫女なのだろうなと納得してしまった。

「ええとどこから話したらいいのかわからないんですけどっ」
 でも、中身は葉桜君のままで安心してしまって、思わず笑いが溢れてきた。やっぱり君は凄いよ。

「は、はははっ」
「わ、笑わないでくださいっ、私だって似合ってないのはわかってるんですっ」
「いやぁ、よ~く似合ってるよ~」
「近藤さ…ちょ、土方さんまでっっ!」
 ふと見れば、トシも顔を抑え、肩を震わせている。安心したのは同じってコトか。

「~~~二人とも、それ以上笑っているなら報告はこれ読んでおいてくださいっ」
 足音荒く葉桜君が出て行った後で、なお一層大きな笑い声を上げた。

「はははっ いやぁ無事で良かったよな、トシ」
「ああ。…本当にそうだな、近藤さん」
 二人でひとしきり笑ってから、葉桜君が叩きつけるようにおいていった書状を手にする。隣から覗きこんだ土方が感心の声をあげる。

「近藤さん、こいつは俺が目星をつけておいたのと同じ場所だぜ」
「へぇ~、流石だなぁ。後で地図と資料を見せてくれ、詳しく読んどくよ。いつでも出られるように、準備だけはしておいてくれ」
「ああ、分かった」
「まあ…できれば幕府の許可を得て堂々と移りたいんだけどねぇ」
 トシが仕事のために出て行って直ぐ、また走ってくる音が聞こえる。それは間違いなく彼女の足音で、今度は瑠璃の着流しに着替えている。いつもの姿のようで、髪をまとめていないので、やはりいつも以上に女に見えてしまう。

「こ…」
「葉桜君、こっちこっち」
「? …わっ」
 素直に寄ってきた葉桜君の腕を引き、腕に抱き込む。なんの警戒もしない辺りが葉桜君だけど、それだけ心許されていると思っていいのかな。

「おかえり。あれから何があったか、全部聞かせてくれるんだろ?」
 久しぶりの葉桜君からは埃と汗と白粉と、それからあの甘い桜香が薫ってくる。でも、彼女はもうあの時のように逃れようとはしていない。

「えー、全部? 全部ってどこからですか?」
「全部は全部だよ」
「最初からだともう本当に長いんですけど」
「うん、いいよ。今日はもうずっとこうしてるから」
 腕の中の葉桜君という存在を強く抱きしめて、確認していたい。ここにいると、温もりを感じていたい。自分がここまで求めているのだと、知って欲しい。だけど、葉桜君は無邪気に言う。

「ずっとは困ります。先ほど、他の隊士たちに稽古をつける約束を」
「だーめ」
「…駄目って」
「隊士の訓練も大切だけど、今は駄目」
「…近藤さん?」
 腕を掴み、葉桜君が顔を寄せる。布越しでもわかる吐息はきっと甘い。

「淋しがらないでくださいって、言ったでしょう? 絶対に帰るとも」
「信じてたよ。でも、それでもーー」
 信じていても不安は消えない。いつ、葉桜君が消えてしまうのか気が気じゃない。君は気がついていないのだろうけど、俺は江戸に戻って以来ずっと不安なんだ。側にいてくれるのは嬉しい。だけど、幕府の終わりが近づいている今、もしも物語のように彼女が消えてしまったら。

「近藤さん」
「なんだい?」
「私、こんなに一人が心細いと思ったことはありませんでした」
 彼女は嘘をつけるような人じゃない。震えているのがもしも嘘じゃないというのなら。

「父様が死んでから、ずっと一人だと思ってきた。だけど、きっとあの日から一人じゃなくなったんだ。近藤さんが浪士組に私を受け入れてくれた日から」
「あの時、あの瞬間から、私は一人じゃなくなっていたんだな」
 顔は見えないけれど、葉桜君は泣いていたように想う。彼女はとても泣き虫だから。

「ーーありがとう。私を受け入れてくれて、私の居場所を作ってくれて」
 囁く声は涙に濡れてはいなかったけど、俺は壊さない程度の力を込めて、葉桜君を抱きしめた。もっとも、加減しなくても彼女が壊れることはないかもしれない。弱いけど、強い人だから。

「どういたしまして」
 耳元で囁いても、腕の中で彼女は身じろぎ一つしない。それは答え。俺には、弱い君の心の中の涙の音が聞こえた気がした。



p.5

3-大久保大和

(葉桜視点)



 隊士たちの訓練を見ながら、ふと空を見上げる。浅葱色の空には透けるほどに薄い雲がゆるりと風に流されているようだ。どれだけ薄くとも、どれだけゆっくりであろうとも、その雲は流れに逆らうことが出来ない。

「葉桜先生」
「ん? もう終わったか」
 声をかけられ、作り笑いを返す。ここにいる隊士のほとんどが未だ実戦経験を持たない。ただ戦いたいと集まってくれた者たちだが、剣の腕では過去にいた新選組の面々に比べれば及びもつかない者ばかりだ。だが、そんな彼らでも銃を上手く扱うことさえ出来れば、同等に並ぶことが出来る。だから、私は彼らの指導にまわっているわけだが、自分自身の腕前としては大した物はない。白兵戦で負ける気はしないが、銃を相手に戦うことはもう天明に願う以外に方法はないようなものなのだ。

 もう今までの戦いは通用しない。ただ剣だけで戦い続ける時代は終わってしまったのだ。

「局長がお戻りになられたようですが」
「ああ、そうだな」
「…行かなくていいんですか?」
「何故行かねばならん?」
 不躾な隊士に何を言っているんだと笑顔を投げかける。

「私にはおまえらを強くするって仕事があるから、そんなヒマはないよ。くだらないことを言っていないで、ほら、さっさと訓練に戻れっ」
 不満そうに戻っていった彼を含め、再び目の前の訓練を眺める。どの手も覚束無いし、まだまだだ。だけど、あの勝沼の戦いに比べれば全然マシだという程度になってきた。

 訓練だから実弾は使えない。それは費用という面からの苦しい選択だが、擬似訓練も出来ない状態で戦場へ出たときにこの年若い隊士たちがどれだけ生き残れるのか。不安は尽きない。

「葉桜さん」
「あ。戻ってたんだ、島田さん」
「土方さんが葉桜さんに局長室へすぐに来て欲しいと」
 訓練をしなきゃいけないんだけど、なぁ。はぁと息を吐いてから立ち上がる。堂々と呼び出されたんじゃ、行かないわけにはいかない。

「わかった、すぐに行く。指導の代わりはもう誰かに頼んである?」
「それはワシが引き受けるよ」
 島田にあとを任せて、葉桜は邸内へと足を進めた。話の内容自体は実際もうわかっている。おそらく、屯所の移転についてだろう。そろそろ動く頃だと思っていた。

 局長、近藤の宛がわれている部屋の前で一度立ち止まり、ふぅと息を吐く。まだ、二人に話していないこともあるから、あの場所へ行くなら話さなければならないだろう。長い話ではないが…こちらも覚悟を決めなければ。

「葉桜、何してんだ?」
 先に開けられてしまった障子の前で、笑顔を作る。

「まぁちょっとした覚悟というか」
 奥で近藤が首を傾げているのに合わせて、自分も首を傾ける。

「移転先は流山でいいんですよね?」
 頷かれて苦笑いを返す。

「葉桜君がせっかく良い場所を見つけてきてくれたしね~」
「なんだ、不満なのか?」
「いやあそういうわけじゃないんですが」
 この二人は笑わないで聞いてくれるだろうか。次の移転先として葉桜が赴いたとき、交渉した材料というのが。

「実はですね、初めて権力を使ってしまいまして」
「それで?」
「あれ、驚かないんですか? それで、あそこにいる間の総責任者は私ということにしてあるんです」
 久方ぶりに驚く二人を見た気がする。怒るだろうなとわかっていたんだけど、それでもこれで避けられるものなら避けたい。怒られるぐらいで避けられるなら、未来を変えられるというのなら、いくらだって怒られてもいい。その結果で何が起ころうとも自分に出来ることを、自分の信念を貫く以外に自分に道はないのだから。

「流山にいる間はそのように振る舞いますから、お二人とも私の言うこと聞いてくださいね」
 可愛くいってみたが、どうやら失敗したらしい。

「何故君がそこまで、」
「その方が動きやすかったんですよ。新選組ってバレたらマズイでしょう?」
「だからといって、身分を明かす必要は」
「だーかーらー、動きやすかったと言っているでしょう。新選組としてでは弊害もあります。だけど、宇都宮の巫女姫の名前はあの辺じゃ有名なんですよー?」
「え!?」
 今の今まで言ったことはない。新選組に入ってからこれを口にするのは、二度目だ。私自身が旅をしている間一番ひた隠しにしてきた秘密だから。

「今の藩主に子はいなかったはずだが、」
 さすが土方。

「私は前藩主の娘でして」
「葉桜君が…姫…!?」
「でも、母が影巫女をしていたので、公にはされていませんよ」
 明かすつもりはなかった。だけど、ココまで来たらもう隠し事をしていても仕方がない。近藤の死は必然。それをひっくり返そうというのなら、自分の全てを捧げてでも阻止してやる。

「証拠は、まぁ、流山に行けばわかります。信じる信じないに関わらず、私が責任者ですからね」
 すべての手の内を明かして、それで利用されるでも良い。それで皆が助かるというのなら、どうなろうとかまわない。

 二人はしばらく混乱していたようだが、長く息を吐き出してから厳し顔のままに問いただしてきた。

「どうして今、それを明かすんだい?」
「理由がいるというのなら、たったひとつだけですよ。私も新選組が大好きだから、力になりたい。ただそれだけなんです」
 自分のまいた種でなくても、大切なこの人たちにかかる火の粉はすべて自分が受け入れよう。運命なんかじゃなくても、ただ大切だから。

「私はただ、皆に心のままに生き抜いて欲しいから。そのためだったら、どれだけ利用されてもかまわないんです」
 微笑んだ葉桜を前に二人も何も言わず、じゃあと葉桜が立ち去った後に近藤が小さく呟いた。

「いっつも勝手だよ、葉桜君は」
「勝手ばかりしやがって、こっちの気も少しは考えて欲しいぜ」
 苛立ちながら土方も応える。二人は今、同じコトを考えている。

ーーどれだけ利用されても…。

 そんなことをするつもりはないのに。むしろ今の彼女は生きるために俺たちを利用してもいいぐらいなのに。

「どうしてあんなに人のことばっかりなのかねぇ」
 もうすこしぐらい自分のことで欲張りになってもいいのに、決してそうしないから。だから、彼女を放っておけないのだ。



p.6

 屯所を出る日はとても良く晴れていた。葉桜が着ているのはおろし立ての家紋入りの羽織だ。それから、一番の特徴となっている長い髪に長年使い続けた紅の紐を飾っている。

「あの格好でなくて良いのか?」
 土方の疑問に葉桜は笑って返す。

「あはは、あんな格好で毎日いるわけにもいきませんからね。普段着はこっちですし」
 常なら気にもならないそれに土方が首を傾げているだろうとわかっていながら、葉桜はあえて言わなかった。きっと自分が「宇都宮の巫女姫」という権限で交渉したのだと言っていたのに、その姫君がこんな男姿では怪しまれるのではないだろうかとかそう言ったことだろう。

 主の金子左内に別れの挨拶をしている近藤さんを見ながら、実に楽しそうにしている葉桜に土方は何も問わない。

「色々とお世話になりました。金子さんのご尽力には本当に感謝しています。わずかばかりのものですが、どうかお納めください」
「いえ、そんな。わざわざ、ご用立てていただかなくても」
「いえいえ、これはほんの気持ちですから」
「そうおっしゃるならいただいておきます、大久保様」
 近藤はもうずいぶん以前から偽名を使っていた。もちろん土方も同様だ。二人は名を知られすぎているし、戦いの準備も整っていない今はまだ、薩長軍に見つかるわけにはいかない。それ故の偽名だ。わかっているから、葉桜は二人の本名を伏せて交渉にあたっている。

「本当にありがとうございました」
 戻ってきた近藤に対して、土方は開口一番、こう尋ねた。

「で、近藤さん。あそこで渡してきた額はいくらなんだ? まさかまた五両じゃねぇだろうな?」
「えっ、五両だけど?」
 当然だと言わんばかりのそれはあんまりな額だと葉桜でもわかる。

「あの、また五両って」
「近藤さん、八木の屯所から出る時も、五両しか渡さなかったんだぜ? 向こうはウン百両もかかってるってのに五両ぽっちだ。八木さんも呆れてたもんさ。二年間の家賃としては破格に安いですな、ってね」
 なんだか、それでずっと以前にもっていた疑問が解消された。八木邸に山南を残してくれるように頼んだときの八木の表情、それからこちらの提示した額に対するあの喜びよう。

「うっわぁ」
 確かに安い。安すぎる。

「あれじゃ何も渡さない方がよっぽどマシだぜ」
「そうだったな。あん時は総司にもさんざんバカにされたんだっけなぁ」
 総司にまで馬鹿にされておいて、また繰り返すなんて。この人いったい何を考えているんだ。

「でも、今回はちっとばかし特別なものも同封してあるんだぜ」
「特別なもの?」
 思わず尋ね返した葉桜だったが、次の瞬間聞かなきゃ良かったとはっきり後悔した。

「俺の写真だよ、俺の写真! 一生の家宝になるぜ」
「近藤さん、あんたマジでそんなもんもらって喜ぶと思ってたのか?」
「えっ、喜ばないかな?」
 本気だ。この人、本気だ…!

「喜ばねぇな」
「そんなことないよな? 葉桜君」
「え、えーと、その、」
「何で目ぇそらすかなぁ~」
 あまりにも答えにくい質問だからです、近藤さん。

 いや、私は嬉しいよ。あとはきっと深雪太夫とかつねさんとかお嬢さんは嬉しいだろう。だけど、他の人はもらっても嬉しいかといわれると返答に困る。だってさ、世間一般的に新選組局長といえば、とーっても怖いお人なわけで。それに迷惑ばかりかけられた相手にそれをもらって嬉しいかと問われれば。いくら愛があってもこればっかりは、ね。

 イジイジといじけている近藤の背中を叩き、行きましょうとその手を引く。それだけで案外にすぐ機嫌も治ってしまうこの人は、とてもカワイイと思うし、愛しいと思う。父様と近い空気を持ってて、それでいて全然別な人。

「そんじゃ、気を取り直して。そろそろ流山に向かうとしようか」
 あなたを助けるためなら、なんでもできるつもりだけど、今回のだけはあとで手紙でも送っておこうかと思案する葉桜だった。宛先は勝海舟と良順。二人には初めて出す手紙だけど、きっとわかってくれる。

「長岡屋なら、在る程度の余裕を持って訓練も出来るし」
 空いた手で土方の袖も掴む。欲張りだけど、どちらも大切でなくしたくない自分の小さな我が侭だ。どっちの手も離したくない。大切な人の手はどれも温かいままであって欲しいから。

「これで一気に訓練をつけられますね。何とか新政府軍との戦いに耐えられるぐらいにしないと!」
 これから控えていることを考えればそれほどの楽観は出来ないけれど、それでも今は未来が明るく開かれていくことを信じていたいから、思いっきり声をあげて笑う。

「さーこれからビシビシしごくぞー!」
 後ろの方で隊士たちが同意の声をあげてくれるのを驚いて振り返り、葉桜は彼らにも満面の笑顔を返した。



p.7

4-下総流山



 あの日あの時、どうして自分はその場にいなかったのだろう。その時のことは何度悔やんでも悔やみきれない。

 隊士たちの指導を担当していた葉桜は、流山に到着して早速訓練の計画を練り、近隣の山野で野外演習にいそしんだ。そこを通る影に妙な胸騒ぎを感じて、今自分は木立の間を駆け抜けている。様々の緑と時折混じる木立の間は夏を前に青葉を瞬かせ、色々な緑で彩られていて、余裕があるときならばのんびり散歩でもしたいぐらいだ。だけど、今はそんな時間もないのでとにかく一直線に長岡屋へと急いだ。

 が、かなりの距離を置いて足を止める。理由は入り口にはなかなかの男前が仁王立ちして構えているからだ。このまま正面から入るのはまずいと察して、こっそりと戻り、近藤らの気配のある部屋へと急ぎ、呼吸も置かずに障子に手をかけた。

「表のあの人は誰ですか?」
 音を立てずに障子を開けると、近藤が珍しくびくりと肩を震わせて振り返る。

「あ…葉桜君、か」
 なんでそこで悪戯して叱られている子供みたいな目をするんですか。部屋に足を踏み入れ、後ろ手に音を立てずに障子を閉める。

「表にいるのは東山道先鋒軍の有馬藤太という者だ。俺たちに武装解除して、上官は板橋総督府へ出頭しろと言ってきている」
 土方の冷静な返答を前に、二人の間に腰を下ろす。

「まだ新選組とは気づかれていないんですよね?」
「薄々は感づいているようだな」
 ちっと小さく舌を打つ。やはりしばらく姫としての仕事をしていなかったのが効いているらしい。まあそうでなくとも以前から自分を知っている人の中に協力的でない者もいたのだから仕方がない。

「いや、違うな」
 冷静な近藤の声が土方との話を遮る。

「どういうことだ、近藤さん」
「あの男、少なくとも俺たちが新選組だってことだけは確信してる。俺が近藤であることにもすぐ気がつくだろうさ」
 いつにない弱気の近藤に目を見張る。何を、言い出すんだ。

「何故そう言い切れる? 俺たちは偽名を名乗っている。流山に来る前からずっとだ。長岡屋の主ですら、俺たちの本当の名を知らねぇんだ。何を根拠にそんなことを?」
「そうです。私は誓って、彼らにあなたたちの名も身分も明かしていない。私を疑うことはあっても、あなたたちを疑うような要素は何も作っていません」
 もちろん、自分の素性を調べられればすぐにでも新選組の隊士だということはわかるだろう。だが、だからといって、それだけで近藤と土方の素性がバレるとは考えにくい。

「根拠はないさ。でもこういう時の俺の勘はよく当たるのさ」
「だからって諦めるのが早すぎる! もう少しあがいてみようぜ!」
 近藤は一体何を考えているのだろう。

「今の俺はもう満足に剣も振れねぇ。この先も俺の右肩が元に戻ることはないだろう」
 諦めないと言ってくれたのに、置いていかないといってくれたのに、どうしてそんなに弱気になっているんだ。

「あの人の背負っている荷物は、あまりにも大きいですから」
 つねさんの言葉が頭を過ぎる。だから、支えて欲しいのだと、彼女の声が聞こえる気がする。

「今、必要なことは誰かを犠牲にしてでも新選組を存続させることさ。トシや葉桜君の指揮ぶりも随分とサマになってきた。俺なんかがいなくてももう十分やっていけるだろ」
「近藤さん! あんた何言ってんだ!」
 駄目だよ、つねさん。自分には、支えられない。だって、近藤が背負っているのはきっと、自分が分けてしまった荷物なんだ。それと知らずに支えてくれるから、つい甘えてしまった自分のせいなんだ。

「ここで俺が切腹するって手もあるってことさ。それで向こうさんが納得してくれりゃ、めっけもんだ」
 支えることはできない。逃げたいという近藤を止めることも、できない。だけど、約束したんだ。必ず、生きて返すと。

「そんなこと、言わないでください。お願いですから、生きることを諦めたりしないで」
 荷物を返してくださいと囁く。だって、近藤が他の誰かが背負えるような荷物じゃないんだ。大切な人の命を支えるために、皆の幸せを支えるために、葉桜が自ら持っている荷物なんだ。逃げたくても、逃げちゃいけない。それができるなら、父様の死んだときにとっくにそうしている。

 今ココにいるのは、いられるのは近藤が自分を入隊させてくれたからだ。最初から自分は十分に怪しかったし、間者と思われても仕方がなかった。自分で選んだ道をこうして歩けるのは、近藤のおかげだ。生きていたいと、例え背負う荷物(いのち)が増えようとも共にいたいと願えるのは、近藤が支え続けてくれたからなんだ。

「お願いです! どんなにみっともなくてもいい。今はもっと生きるってことに、しがみついてみましょうよ!」
 それが自分に言う資格のない言葉だとしても、それでもそんなことを言わせるために、諦めさせるためについてきたわけじゃない。生きるために、平和な未来を勝ち得るために、共に戦っているんだ。それを。

「葉桜の言う通りだ、近藤さん。それに、変名がバレてねぇ間なら他から手を回して助けることだってできる。希望がなくはないんだよ」
「…そうか」
 土方の必死の説得に、ようやく近藤は考え直してくれた風に見えた。でも、その目はまだ、活きてない。

「ははっ、そうだよな。よりにもよってこの俺が、真っ先に諦めちゃダメだよな」
「そうですよ」
 無理をして笑ってくれているのがわかった。だけど、そうして笑ってくれる近藤の方が彼らしいから。

「そうは言っても、この人数じゃ勝ち目はねぇしな。ここは俺が投降して板橋の総督府とやらへ出向くしかないだろ」
「ならば俺も一緒に…!」
「よしてくれよ。局長と副長がいっぺんにいなくなってどうすんのさ」
「じゃあ、俺が近藤さんの代わりに、」
 疑問が生まれる。話の流れ的には、自分が出向くはずなのに。

「ダメだって。さっき俺がここの責任者だってもう言っちゃってるじゃん」
「くっ…!」
 よくよく聞いてみれば、有馬という人に、自分が責任者だと近藤が言ってしまったらしい。聞いた直後、葉桜は強く拳を床に叩きつけた。

「あ、あ、あれほど私が責任者だと言ったでしょう!?」
 その為の布石を本人がぶち壊したんじゃ、まったく意味が無い。白拍子の格好までして、巫女姫としての姿を印象づけさせてまでしたのに。

「私がっ、どれだけあの格好が恥ずかしかったかと…!」
「ああ、また見せて欲しいなぁ。本当に、とても綺麗だったから」
 なんで今ここで、それを言うんですか!

 声にならない声を、拳で近藤の胸に叩きつけて、それを近藤は黙って受け止めてくれた。肩に感じる緩やかな熱を離したくないと願う。しがみつく自分を抱きしめる腕が温かいと感じる。だけど、これから直にそれはなくなってしまうのだ。いなくなって、しまうのだ。

「何とかして、近藤さんを救い出すからっ!」
「うん」
 絞り出すような叫び声も全部胸の内に抱きしめて、くぐもって、届いたのかどうかわからない。

「だから…だから…っっ」
「うん。頼りにしてるよ、葉桜君」
「近藤さん! 俺が何とかして、あんたを救い出す! だから近藤さんもバレねぇように時間を稼いでいてくれ!」
 土方の声にも答える柔らかな声は体中に響いてくるのに。

「ああ、分かったよ。でもな、トシ。俺がどうなっても、俺たちの意地だけは貫き通してくれ」
 その揺るがない固い決意を感じてしまって。尚いっそう強くしがみついた。

 行かないで、と言いたい。もう日はないのだ。近藤の終わりまで、時間がない。今別れてしまったら、今生では二度と会えないかもしれない。助けられなければ、すべてが終わりだ。

「…葉桜君、そろそろ行かないと」
 優しく諭す声に嫌だと首をふり、その胸に顔を埋める。近藤も口では言いながら、葉桜をまた強く抱きしめる。

「ひとつだけ、約束してほしい。決して、ーー君自身が諦めないと」
「諦めるわけないでしょう!? あなたを死なせたりなんかしない。どんな手を使ってでも、助けるから、だから…!」
 ぎゅぅともう一度抱きしめてから、近藤は葉桜の両肩を押さえて、引き剥がした。潤んでいる葉桜を前にわずかに怯み、無理矢理に笑顔をつくる。

「ねえ、葉桜君。笑ってくれないかな。俺、君の笑顔が大好きなんだ」
「戻ってきたら、いくらでも笑ってあげますよ…っ」
「頼むよ。これからしばらく逢えなくなるだろう? 折角なら、君の笑顔を思い出していたいんだ」
 こんなときにまで口説かないでと言いたいけど、気がつけば必死に笑顔を作っていた。

「ああ、うん。やっぱり葉桜君の笑顔は元気が出るな」
「近藤さん」
「愛してるよ、葉桜君。君を、愛してる」
 近づいてくる近藤の前で瞳を閉じると、唇に軽く熱が触れる。だけど、次に目を開いたときにはもう目の前から姿を消してしまっていて。残り香をかき集めるように腕を伸ばして、その姿を求める。このまま行かせてしまってはいけないと、自分の中の何かが告げているのに。二度と、逢えなくなるのだと叫んでいるのに。今すこしでも動いてしまえば、引き止めてしまいそうだ。

 強く閉じた瞳から更に雫が溢れて落ちてゆく。

「絶対、助けるから…っ」
 この命に代えても、絶対に、死なせない。斬首も切腹も、どっちも認めない。

「絶対に、生かすから…っ」
 人の身の限りはあれど、それを叩き壊してでも助ける覚悟ならとうにできてる。だから、いるのに。それなのに。

 近藤を見送ってきた土方が葉桜の前で悔しそうに手を握りこむ。

「くそっ! 今生の別れみてぇなこと言いやがって…!」
「葉桜、気合を入れろよ。何としてでも近藤さんを救出するんだ」
 泣いている場合じゃないと、心を固める。時間は少ないのだから、直ぐにでも動かなければならない。ごしごしと手の甲で涙を拭い、両頬をパンと叩いて土方に答える。

「はいっ!」
 まだ終わったワケじゃない。手がないワケじゃない。自分が諦めて、誰が、近藤を助けられるんだ。

「土方は何か手を思いついた?」
「一応、な。勝さんに助命嘆願書を書いてもらおうかと思っている。それを正体がバレる前に届けられれば」
 確かに、勝海舟の助命嘆願書ならば効果はありそうだ。だけど、まだそれだけじゃ足りない気がする。

「葉桜は何かあるか?」
「…折角だから、助けてもらおうかと思ってる」
「誰にだ」
 泣き笑いの顔を見せる葉桜を見つめる、土方は険しい顔をしている。そして、次に言った意外な言葉にさらに眉間の皺の数を増やしたのだった。



p.8

5-勝海舟



 久しぶりに入ったその屋敷は、最後に来たときと変わらず殺風景だった。人もほとんど中に入れていない辺りが、彼らしい。

 土方の後ろに相馬と並んで控えながら、ふと外を見る。憎たらしいほどに良く晴れているというのがなんとも嫌な偶然だ。父様と最後に来たときもこんな風な空だった。

「道は違っても、目指すものは同じ、か」
 あの時の父様が呟いた言葉の意味はわからない。だけど、あの時喧嘩別れのようだったのに、屋敷を出た途端に笑って言ったのだ。自分には全然意味がわからなかった。

 葉桜らをたっぷりと待たせてから、ようやく姿を見せた彼はまず、開口一番にこう言いやがった。

「まったく、葉桜は相変わらず父親そっくりだな」
「は?」
 何も知らない土方や相馬の前で、何故今それを言うのか。流石に表には出さないけれど、これで後で追求されるのは目に見えている。

「あいつに似て、頭で考えるよりも先に動いて、そうやって失敗して、泣きついて」
「誰がいつ泣きついたんですか。父様は誰かに泣きついたりなんてことはしませんでしたっ」
 なんで来た途端に父様の悪口を聞かされなきゃならないんだ。この人の方こそ、昔から全然変わっていない。

「そいつはおまえが知らねぇだけだ。あいつ、けっこう泣き虫なんだぜ~?」
「父様は泣いたりなんか!」
「ま、あいつも流石に娘の目の前じゃ泣かなかったってワケだ。酒に呑まれるとしょっちゅう愚痴零しちゃ泣いてやがって、煩かったんだぜ」
「それ以上父様を愚弄するのは、いくらあなたでも許しませんよ!?」
「ほぅ。許さなかったら、どうするんだ?」
 ニヤリと笑う勝海舟を前に、殴りかかりたい気持ちを無理矢理に抑える。自分はこの人に一度も口で勝てたためしがない。小さな頃から大人と言い合うのは慣れているはずなのに、この人にだけはどうしても勝てなかった。

 ひとしきり葉桜「で」遊んだ後で、勝は土方に向き直る。最初のは挨拶の一環だとわかっていても、それを見ながら葉桜は頬を膨らませて不満を顕わにしていた。小さい頃をそれは全く変わらない。その反応を横目に、かすかに勝は口端を上げる。

 相変わらず嫌な笑い方。芹沢が葉桜をからかう時ととても似てる。

「土方歳三君、だね」
「はい」
「きみが俺に会いたかった理由、近藤君の助命について、俺なりに検討したんだがねぇ」
 本当ですか、と激しく問いたい。が、はぐらかされるのが常なので、ここは土方に任せておくことにする。勝海舟は新選組の力をそごうとして、甲陽鎮撫隊を設立させた人なのだ。自分が敵うような人物じゃない。

「ご助力いただけますか」
「その前に、流山での件について詳しく説明してもらいてぇな。でないと俺も身動きが取れんよ」
「分かりました。実は」
 本当は全部知っているんでしょうとか言いたい。だって、手紙書いたんだ。五反田新田から移転するときに「移転するね」と可愛らしい文字で書いて出してやったのに読みもしてないのか。この人、やっぱり…葉桜のコトが嫌いなんだ。

 そういえば、昔、衆道の人だとか冗談で良順が言ってたけど、あれってどこまで本当の話なんだろう。だから、父様が私にかかりきりになっているからって男の嫉妬は醜いなんて言ったら、思いっきり良順が殴り飛ばされてたっけ。

「なるほどな。そういう経緯で近藤君は連れてかれたのかい。まあ、判断としては間違っちゃいなかったな」
「…はい」
「そうなると近藤君が大久保大和だと思われている間に助命嘆願をしなきゃなぁ…」
「ええ、ですからこうしてお願いにあがっている次第です」
 勝海舟は渋い顔をしながらも、お互い様だからと助命嘆願書を書いてくれた。その際、私だけを部屋に呼びつけて。書いている間、ものすごく待たされながら、こんな話をした。

「おまえ、いくつになる」
 文机に向かっている勝の背中は昔と変わらず広くて、大きい。頼もしいと思ってしまうのは、やはり父様の悪友だからだろうか。

「…何ですか、急に」
「もう嫁に行ってもおかしくねぇ歳だろ? いつまでこんなこと続けるつもりだ?」
 言っている意味がよくわからなくて首を傾げてみるが、彼は振り返らずに筆を動かしている。以前に見せてもらったことがあるのだが、勝の字はとてもまっすぐで伸びやかで、よく父様や良順がからかっていた。なんて言っていたのか今は思い出せないけど。

「いつまでって、死ぬまで?」
「ったく、親娘そろって馬鹿だな」
「父様を馬鹿にするな」
「…まあ俺も人のことは言えねぇか」
 独り言のようなそれに、お、と耳を傾ける。

「前にあいつから聞いたんだ。おまえは幕府の業を背負ってるってな。もしも幕府が滅んじまったら死ぬかもしれねぇ、と」
 いつそんな話をしたんだろう。初めて聞く、それに驚いた顔をしていると、勝は振り返り、驚くほどに優しい目で葉桜を見つめた。父様や良順が自分を見るのと、おんなじだということに動揺している自分がいる。

「確かに、近藤君らのように徳川復権というのもひとつの道だ。だけどな、俺はあいつに頼まれてんだ」
 どうしてそんなことを今になって。

「おまえを、葉桜を生かしてやってほしいってな」
 そのために浪人から成り上がり、軍事総裁にまでなったのだ、と。

「徳川主体でなくても、徳川家を存続させられれば、おまえは生き残れると俺は踏んだ。そのためにあいつと喧嘩別れしちまったけど、それでもわかってたんだろうよ。死ぬ間際に手紙なんか書いてよこしやがった」
 ぽんと放り投げられたそれには、確かに父様のミミズののたくったような汚い文字がならんでいて、それでも心を込めて書かれた御礼状だとわかった。

「死ぬ間際まであいつは心配していたぜ。おまえが生きることを、幸せを見つけることから逃げないかってな。それを言うこと自体が余計な世話だっての。葉桜があいつのトコに転がり込んできた時から、おまえは俺らにとって、大切な娘だったんだからな」
「…海舟…」
「何をやってもかまわねぇ。だけどな、命を無駄にするんじゃねぇぞ」
 それから、と続ける言葉に涙が止まらない。

「あいつらに深入りするな」
(だから、もう手遅れなんだってば)
 近づいてきた勝に書状でぺしりと叩かれる。見上げると、困ったヤツだというように笑われた。

「それにな、そろそろ嫁に行っておかねぇと行く当てがなくなるぞ」
「余計な世話っ」
 ぽすっと軽くあてた拳はあっさりと手に取られ、守るようにその胸に抱かれる。久しく感じていなかった安心が、温かさが心地よい。

「もしも行く当てがなくなったら俺のトコへ来い。なんとかしてやる」
 同じだ、と今まで気がつかなかった。この人もこんなにも自分を気にかけてくれていたなんて。

「…有難う」
「お。随分と素直になったじゃねぇか」
「む。じゃあ、今の取り消し」
「ははは、その方がおまえらしいぜ」
 体を離され、熱が離れるのを少しだけ惜しんだ。そんな葉桜の頭に手を置き、彼は笑う。

「無理はするな。俺が絶対におまえを生かしてやる」
「…海舟」
「約束だ」
「…指切り?」
 おずおずと出したそれに勝の無骨な小指が絡まる。葉桜の親指ほどもあるそれが強く、葉桜の小指を掴む。

「ああ、俺の命を賭けてやる。だから、絶対に死ぬんじゃねぇぜ」
 固く交わされる誓いに想いは溢れて止まらなかった。指切りは心の誓い。そう葉桜に教えたのは父様と良順と、そしてこの勝だった。

 昔から、葉桜はこの人が苦手だった。なんでもはっきりとモノを言うくらいなら良い。だけど、あまりにはっきりと言われすぎて、否定されてる気分になる。おまえのやっていることは全部間違いだ、と言われている気になる。大抵が皆、思うようになるのが正解だと言ってくれるのに、この人だけが他の道はないのかと問いかけてくる。だから、苦手だった。海舟は、葉桜が自身を犠牲にしようとするとき、いつも気がついてしまうから。

「葉桜が死なねぇで、本当の幸せってヤツを見つけること。それが、俺らの願いなんだからな」
「…父様と、良ちゃんと、海さんの…?」
「そうだ。だから、ちゃんと叶えてくれよ。巫女姫様」
 茶化す言葉の裏に隠された優しさを感じ取り、葉桜は腕を伸ばして、強く抱き返す。

「だったら、近藤さんを助けてよ…。新選組を助けてよ…っ」
 隣に聞こえるかもしれない。だけど、もう、言わずにはいられない。

「私は、新選組にいる今が一番幸せなんだ。でも、一緒にいればいるだけ私の裁くべき業が彼らに降りかかってしまう。私が幸せであればあるほどに、彼らの幸福を奪っていってしまうんだ…っ」
 抱き返してくれる温もりに感情のままの言葉をぶつける葉桜を、深い声が遮る。

「本当にそっくりだよ、おまえら」
 しょうがねぇやつらだと、笑われて。小さな小さな声が囁いた。

ーーおまえはおまえの選んだ道を貫き通せ。後のことは俺が全部引き受けてやるからよ。



p.9

 土方に助命嘆願書を渡す際、勝はある情報をくれた。

「そういや今、鴻ノ台がどういう状況か知ってるかい?」
「鴻ノ台、ですか?」
「今、あそこにゃ徹底抗戦を唱える、旧幕府や諸般の軍勢が集まってる。あいつらと合流すりゃ、まだまだ戦い続けることも可能なんじゃねぇかな」
 土方が不審そうに眉を寄せるのを、彼は穏やかに笑った。

「知っての通り俺は新政府に対する恭順派だ。そんな俺の苦労の甲斐もあって江戸城はもうじき新政府軍に引き渡すことが決まった。言うなりゃ無血開城ってワケだ」
「俺は俺の信じた道を貫いた。徳川家の存続をはかるにゃ、これが一番正しかったと信じてる。きみらだって貫きてぇ信念や意地があると思ってね」
 肩に手を置かれ、急に彼は葉桜を土方の方へ押し出した。

「土方君」
「はい」
「形は違えど徳川家を思う気持ちは変わらねぇと信じてる。見事、その意地貫いてみな」
 ハッとしたように土方が目を見開き、それから軽く頭を下げた。

「はい、ありがとうございます」
 勝の言葉にはもう一つの意味が隠されていた。それは、葉桜を頼むというコト。身一つで、時代の業を受けようとする彼女を、守り抜いてくれという願いだ。

 部屋を出てから土方はもう一度振り返り、また深く頭を下げたのだった。方法は違っても、目指すモノは変わらない。それは、葉桜が幸せに生き抜く未来だから。

 屋敷を出て、すぐさま相馬は板橋へ向かったが、その日どころか数日経っても彼が戻ってくることはなかった。

 二人きりで戻った宿屋では何も語らず、眠れない葉桜は毎夜月を肴に杯を傾ける。最初の日は土方も付き合っていたが、葉桜が無理矢理に眠らせるので仕方なく、床についている。部屋の中には土方の静かな寝息と、杯に酒を注ぐ音だけが響いていた。

 酒の水面に浮かぶ月はいつも何も語らないし、教えてくれない。力があれば有益な何かを知ることも出来るというのだが、葉桜は自らの力を操る術を知らない。せめて夢の中で無事を確認出来ればいいけれど、こんな心持ちのままに眠ることは出来なくて、酒を飲んだらますます目が冴えてしまって。杯に、ぽちゃりと雫が落ちた。

「土方、時間切れだ」
 翌朝、そう言った葉桜に土方はただ無言の疑問を投げかけた。

「ここで時間を浪費しても状況は変わらない。少なくとも、今はまだその時じゃないから」
 普段ならば無理矢理にでも笑って誤魔化すところなのだが、表情を変えずに淡々と葉桜は続ける。それはそのまま不安と決意の現れのような気がして、葉桜の頭を胸に押しつけ、土方はただ静かに頷いた。

「鴻ノ台へ向かうぞ」
「…はい」
 慶応四年四月十一日、ついに江戸城は無血で開城され、江戸城は新政府軍のものとなった。

 流山で武装解除された新選組の本隊はすでに会津へ向かっているはずであり、戦い続けるには江戸開城に不満を持つ旧幕府軍の人たちと合流するしかない。だから、葉桜たちは島田ら数人の隊士と合流し、鴻ノ台へと向かった。

 道中、一度だけ葉桜は板橋の方角を振り返った。視線の先はただ晴れやかな青空が広がるばかりで、目を細める葉桜の背を土方が押す。

「葉桜、気持ちは分かるが今は何も考えるな。こうなっちまったらもう、前に進むしか道はないんだ」
 小さく「そうだね」とだけ頷いた葉桜が、しばらく笑顔になることはなかった。



あとがき

1-移り香


こうして書きながら思うのは。
あーやっぱ自分は近藤さんが好きなのかなー?という疑問です。
山南さんの時も多かったが、意識しないと土方さんの存在を忘れてしまいそうです(コラ。
(2007/1/31 00:52:06)


2-移転先


最近アヤトリをした記憶がないなぁ。
次までに終わらせられるかどうかわからないですが。
もしかすると…2月いっぱいはこの章かかるかも?
あ…でも、私は忙しいときほど筆が進む人でした…。
ゲームやる時間はあるかなぁ。
やっとノってきた感じなんですが、改めて読み返しても長いですね。これ。
書き終わったら、どうなっちゃうんだろう…私(自分か。
本編はまだ続きます。
次回も近藤さん多めです。
つか、ゲームのアレを覆す予定なので、個人の責任で読んでください。
ゲームのエンドがベストだとしても、史実だとしても、せめてゲームでは生存エンドが欲しかった!
てことで書いているので。
金髪の時点で史実と違うんだからいーじゃーんっとか思ってるので。
(2007/1/31 01:12:48)


3-大久保大和


宇都宮藩の話はすべてフィクションです。
まぁ金髪局長の時点でパラレルだし、いいかなぁと。
ゲーム内ではかなりどうでもいい藩に入りますしねー。
(2007/2/3 17:07:11)


4-下総流山


どれだけ考えても、引き止める方法がなくなっていました。
だってさ、隊士指導をしているヒロインがその場に残っているワケがない。
(2007/2/3 17:08:48)


5-勝海舟


勝海舟とヒロインの絡みはもちろんフィクションですよ。
この人がそのために軍事総裁になったわけがない。
でも、浪人から出世して~てのは何か別のヤツの見た気がします。
折角だからそれを使って、実は葉桜父と良順と海舟の絡みがあるとおもしろいなーと。私が(自分かよ。


なにか終わりが暗いですね。
一応、章の終わりは明るくなるように努めますので、見捨てずに読んでいただけると嬉しいです。(一応?
次は宇都宮上攻略なので、ちょっと待ってください。
調べてないんです。
ゲーム中じゃあっさりと終わってしまう件なんですが、個人的に(地元なんで)ちゃんと書きたい。
(2007/2/5 17:42:34)