空港のロビーでガラガラとスーツケースを押して颯爽と歩く一人の少女がいた。周囲の人々の視線が釘付けなのは何も彼女が美人だというわけではない。問題はその格好である。キャミソールに薄手のショール、マイクロミニのスカートに、細めのミュール。そして、周囲の人々はこれでもかというぐらいにコートを着こんでいる。
幸いグラサンで目は見えないが、真っ直ぐな黒髪はまごうことなく日本人である。
「おーおひさー、ユキナっ」
彼女は向かう先の相手の前にスピードも落とさずに、いやむしろスピードを上げるようにして近づき、スーツケースの手を離した。当然、スーツケースはまっすぐに相手を向かう。
「ちょっ、冗談…っ」
相手にぶつかると同時にそのまま足をかける。
「お久しぶり、従兄殿」
「ゆ、ユキナ…怒ってる?」
「ったりまえでしょーっ? 何が今、日本は夏、よっ」
グラサンを外した彼女、ユキナはニヤリと笑った。昔と変わらない面影に、少しだけ俺は安堵したのだった。
彼女のスーツケースを押しながら、駐車場まで移動する。ちなみに、彼女は俺のダッフルコートを奪って着こんでいる。おかげで俺はメチャメチャ寒いが、ユキナの綺麗な足が拝めるから良としておこう。
「メールで暑いって聞くから、折角涼しいカッコしてきたのに」
「眼福です」
「とぅっ」
左の臑にローキックが決まり、俺は流石にしゃがみこんだ。
「ってぇ~っ!」
「You\'ve made your bed and you must lie on it !!」
何だと首を傾げると、彼女は笑いながら、俺の首に両腕を回して抱きついてきた。
「自業自得って言ったの。ただいま、隼ちゃん」
十三年ぶりに再会した従妹殿はそういって、欧米式に挨拶してくれちゃったりなんかしたんだな。
彼女、木崎ユキナは俺の母親の妹の娘で、俺とは十五も離れている。んだったらいいんだけど、実は同い年で誕生日一日違いの従妹だ。こんなに元気そうに見えるが、虚弱体質とかで入退院を繰り返し、十年前にとうとう大手術をうけに渡米してしまったのだ。
すぐに良くなって帰ってくるといって十年。初めて送られてきた彼女のメール以来、俺らは以前のように友人としてメールを送り合っていた。帰国に先がけて、逢いたいと言ってきた彼女に、今日本は異常気象で真夏だ、などというお茶目をしたのは、失敗したかもしれない。だって、隣にいたら彼女の足は俺だけが見えないじゃないか。
「ユキナ、家で親父たちが待ってるぞ」
「その前に買い物付き合ってよねっ。もーすっごい寒いんだよっ?」
「悪い悪い」
「悪いって顔じゃないーっ」
言葉とは裏腹にユキナは楽しそうに走り出す。最後に見たときは意識もなくぐったりしていていたから、なんとなくホッとした。
買い物の最中、始終ユキナは笑って、走って、飛び跳ねて。同い年のはずなのについていくのは大変だった。でも、楽しそうな彼女を見ているだけで嬉しかった。
「あ、隼ちゃん」
ふいにユキナが露天所の前で足を止めた。その視線をたどり、にやりと笑う。
「なんだ、欲しいのか?」
「うん」
「しかたねぇなー」
何故か不安そうに涙ぐむユキナの頭をくしゃりと撫でて俺はそれを手にした。シルバーの少し安っぽい細めのブレスレットを買い、道端で細い腕に付けてやる。彼女がそれを日差しに翳すときらりと眩い光を放った。
「やったー! 隼ちゃんに買わせちゃったっ」
くるくると嬉しそうに飛び跳ねて、抱きついてくる。細くて小さくなユキナは、俺の初恋だった。
近くの公園へ移動すると、一週間前に降った雪がまだ少しだけ溶け残っていた。それを見つけたユキナが目を丸くする。
「隼ちゃん、雪っっ」
「ああ、残ってたな」
「雪だーっ」
子供みたいに駆け出したユキナはしかし二、三歩で転んだ。
「隼ちゃん~っ」
空港で再会した時はすっかり大人になったなぁなんて思ってたけど、中身はユキナのままだ。近寄って、手を差し伸べてやる。
「なにしてんだよ、ほら」
ほら、な。嬉しそうに飛びついてくる。
「ね、そろそろ教えてよ。あの写真、どうやって撮ったの?」
「ん?」
「メールで送ってくれたでしょ。アレ見たから、私、信じたんだよっ」
あぁと空を見やる。そういえば、日本は夏だと信じ込ませるために今年の夏に撮った写真を送ったんだった。
「写真の日付、11月だったのはなんで?」
期待した瞳で見上げてくるユキナを見ながら、悪戯心がわいてくる。
「アレ撮ったときまでは夏だったんだよ」
「いくらなんでもそんなのにだまされるほど、私はコドモじゃないよっ」
「騙されたじゃん」
「むぅっ」
ふくれるユキナの頬を摘むと、柔らかくてよく伸びた。
「ひゅんひゃんっ」
「あっはっはっ、すっげー伸びる!」
「ふゃにゃへーっ」
なあ、俺、どうしたらいいかわからなくなったんだ。
メールで送ってくれたユキナはとびっきりの美少女になってて、変わらない笑顔だったから。初恋の君にもう一度恋をしたなんていったら、笑うだろうか。
「おわびに、ココアおごってやるから」
「コーヒーがいい」
「…了解」
降参して、ユキナをベンチに座らせてから、自販機へと走る。ホットで甘めの缶コーヒーを選んで買い、もう一つは悩んだ末にやっぱりココアにした。強がっているけど、ユキナはコーヒーが死ぬほど嫌いだったはずだ。
戻って渡すと一口でやっぱり降参する。
「…苦っ」
「ほら」
買っておいたココアを頬に押し付けると、彼女は嬉しそうに笑った。この冬の寒さも吹き飛ばす、春の笑顔に俺の心も和らぐ。
「ねえ、隼ちゃん」
「ん?」
「…笑わないでね、聞いてくれる?」
ココアを飲みながらやけに真剣なユキナの横顔を見る。彼女の視線は真っ直ぐに前だけを見て、俺を見ていなかった。
「私の初恋は、隼ちゃんだったんだよ。…ずっと、言えなかったけど」
ドクン、と心臓が跳ねた気がした。落ち着け、俺。と必死に平静を保とうとする俺を不安そうにユキナが見上げてくる。
「だった? 過去形? て、じゃあ、今は?」
にっこりとユキナが恥ずかしげに微笑む。
「三度目、かな」
「はぁ?」
「…二度目はね、写真の隼ちゃん」
俺は夢を見ているんだろうか。ユキナが俺を好き、て。
「三度目はね…さっき」
心臓の音がドクドクと煩い。これは、俺のだろうか。それとも、ユキナのだろうか。
ユキナの両肩を押さえる。落ち着け、俺。これは、これは、手の込んだドッキリか何かじゃないのか。
「隼ちゃん?」
不安そうに見上げてくるなんて、卑怯だ。ここまで言われて、黙ってなんかいられるか。
「…れ、も」
「れも?」
「俺も、初恋はユキナ、おまえだ」
ユキナの目が見開かれる。だが、すぐに不安そうになる。
「今は?」
くそ、言わせる気かよ。
「ね、今は?」
でも、ユキナが三度目で俺が二度目って、なんか負けている気がした。だからといって、これ以上近づくこともできない。顔を見てなんて、言えるか。
いっぱいに伸ばした両腕に力が入る。顔は、上げられない。
「今も好きだッ。悪いかッ」
見なくても、笑っているのはわかった気がした。
ふわりと、暖かさが俺を包み込む。
「ありがとう、隼ちゃん」
その一言を残して、ユキナは、いなくなった。降り始めた淡雪に溶けるように消えて、シャラン、とブレスレットが落ちる。
しばらくして、ケータイにかかってきた電話を呆然ととる。
「落ち着いてきくのよ、隼。ユキナちゃんがね、今朝ーー」
何故だろう。どこかで俺は知っていた気がするんだ。ケータイを切った後でブレスレットを拾い、二人で並んだベンチに座る。
「…ユキナ」
元気になってほしかった。せめて俺が大人になって、医者になるまで。生きて、待っていてほしかった。
八年後、同じ空港に俺は立っていた。左手にはスーツケース。右手にはユキナが最後に送ってくれた手紙。震える手で綴られた文字、ところどころ濡れて皺になっているのは、俺の涙の跡だ。それをスーツの内ポケットにしまう。
「先生っ」
かけられた声に振り返ると、あの時のユキナのように薄着の少女が立っている。もっとも、病院から抜け出してきたからだろう。彼女が着ているのは淡いピンクのパジャマだ。
「ホントにいっちゃうの? もう、帰って来ないってホント?」
必死に言う彼女はユキナと同じ病気にかかっていた。
近づいて、着ていたコートを彼女に着せてやる。
「私、別にこのまんまでもいいよ。先生がいなくなるなんて嫌だっ」
馬鹿な子供だ。だけど、愛しい姿の頭に手を置いて、撫でてやる。
「ガキが生意気いってんなよ」
「私、本気だよっ」
「それより、俺が帰ってくるまでに元気にならなきゃ、承知しねぇからな」
追いかけてきた看護士に彼女をまかせ、俺は背を向けた。彼女のためにも、ユキナのためにも、俺は絶対に治さなきゃならない。でなきゃ、一歩も進めないんだ。
「先生っ、私…っ」
彼女の叫びは途中で止まる。それは、俺が引き返したからだ。これ以上、叫ばせるわけにもいかない。
「ハルナ、口開けろ」
「?」
不思議がりながらも素直に口を開けた彼女の口に、小さな飴を放り込む。これで、容易にはしゃべれないだろう。
「っ」
「俺は絶対戻ってくる。だから、」
小さな身体を柔らかく抱きしめて囁く。
「それまでに大人になっとけ?」
からかうように笑って、赤くなったまま動けない彼女は看護士にまかせて、俺は今度こそ搭乗口へと向かった。
ユキナには間に合わなかったけれど、俺は二度も同じ想いを繰り返さない。そのためにユキナがいてくれたと、俺たちの出会いが無意味じゃないと信じたいから。
なあ、ユキナ。
機内の小さな窓から見た青空を一本の細い雲が長く長く伸びていくのを見てから、俺は目を閉じた。