卒業式なんて形だけで、涙なんて一つも出なかった。友達とも後輩とも先生とも笑いあって、私は卒業したんだ。
「また明日っ」
なんて、ふざけて言って、その後で友達とカラオケに行って、ゲーセンに行って、門限ぎりぎりまで遊んで。翌日は昼までたっぷりと寝た私は、ベッドの中から手を伸ばして時計を見た。針は昼の一時を回っている。
「んっ」
起き上がり、両腕を高く上げて体を伸ばした後で、私はベッドからゆっくりと降りた。床に敷いた巨大でまるまるとしたひよこ型のカーペットの下で、ぎしりと小さく床が鳴る。足に柔らかなカーペットの感触を感じながら、私はまたひとつ大きな口であくびをする。欠伸と一緒に溢れた水が視界を軽くゆがませたモノの、それはすぐに引っ込む。
タンスから適当に下着とタンクトップ、短パンを取り、足を風呂場に向ける。誰もいない自宅の廊下なんて、休日以外じゃなかなかない。寂しいだなんて微塵も感じないし、私は手早くシャワーを済ませることにする。
シャワーを済ませて、さっぱりとした後は食事だ。身軽な格好のまま冷蔵庫を開けた私は、皿に盛られてラップをかけられたオムライスを発見する。貼り付いたメモには母の特徴ある字で「律の」と私の名前が書かれてある。
(流石、母)
ありがたくオムライスを取り出した私は、電子レンジにそのまま入れて、温め始める。温めている間に、今度は冷蔵庫から飲みかけの牛乳を取り出し、片手で食器棚から透明なグラスを取り出して、口いっぱいまで注ぐ。それをテーブルに運んだところで丁度オムライスが温まったよと電子レンジが知らせるので、私はそれを取り出して、牛乳の横に並べた。
「いただきます」
両手を合わせて、母に感謝して、私はその一口目を口に入れると、じわりと口の中にオムライスの味が広がる。あいにくと私は料理評論家という訳でもないし、TVの中のタレントみたいなコメントなんか持ち合わせてない。でも、母のオムライスはお店で食べるようなのとは違う優しい味がする気がする。
「りっちゃん、オムライス好きだねぇ」
「んっ」
「僕がおっきくなったら、りっちゃんの大好きなオムライス、毎日つくってあげるね」
……過去の記憶が唐突に出てきた私は、一瞬オムライスを乗せたスプーンをくわえたまま固まった。思い出したのは幼稚舎の頃に仲の良かった友達で、現在の私の彼氏の台詞だ。幼稚舎では一緒だったが、あいつが小学部にあがる前に転校してしまい、再会したのは高等部の部活で、しかも私は一年前までそのことをきれいさっぱり忘れていた。
「りっちゃん先輩」
「んー? 白井君、まだ残ってたの?」
卒業前日、つまり一昨日にふらりと学校に行って、部活をした私は、後輩たちを返した後で一人で部室を片付けていて。ひとつひとつの道具に沁みる思い出を噛みしめていたんだ。
「りっちゃん先輩」
よく懐いてきていた白井君が幼稚舎の頃の幼なじみだというのを思い出したのは、丁度一年前で。一つ上の先輩から告白というより、襲われていた私を助けてくれた白井君本人の口から告白と共に告げられたんだ。
「卒業おめでとう」
「あはは、まだ早いよー」
笑いながら片付けを続行する私の後ろから、ふわりと温もりが包む。
「当日じゃ、りっちゃんは聞いてくれないでしょ」
耳に息がかかる距離で囁くテノールが、鈍い私の心を揺らす。
「き、聞くって、何、い、言って」
「卒業、おめでとう」
白井君はもう一度私の耳元で小さく囁いた。
「し、白井……」
「それから、」
ひとつ区切った白井君はなかなか続きを話さないけど、私は今この抱きしめられているという状況が落ち着かなくて、うまくモノが考えられない。
固まっている私を少し離した白井君は、ワルツみたいに私の体をくるりと回転させて向かい合う。
「それから、卒業しても浮気するなよ、律」
額が強くぶつかり、私は思わず痛いと呻いた。その後は別に何か特別なーーキスとかそういったことがあるわけじゃなくて、二人で帰っただけで。
(あれはなんだったんだろう)
白井君は普段は私を「りっちゃん」とか「りっちゃん先輩」とか呼ぶけど、時々二人でいるときだけ「律」と呼ぶ。そのときに何か言いたげな顔をしているんだけど、何も言わないままなのが、鈍い私でも気づくから気になっているんだ。
考えながら、オムライスを口に運ぶ。でも、どうしたって白井君の行動の意味は私には検討もつかなくて。だんだんと考えているのも面倒になってきて。
「……行くか」
オムライスを食べ終わった私は、牛乳を一気飲みした後で適当な服に着替えて、家を飛び出した。
私服校だから私服でも別に違和感はないし、二時半を回るから授業も終わる頃だし、白井君を捕まえられるだろうと考えての安易な行動だ。髪は結わずに櫛だけ通して、適当なシャツの上からボアの薄手のジャケットを着て、下はジーンズにミュールを合わせて。ラメピンクの小さめショルダーにケータイと財布、ハンカチとティッシュを入れて。
学校まではバスで十分、そこから徒歩で正門まで五分程度。急いでなくてもだいたい二十分ぐらいで着くのだけど、バスを降りた後からなんだか私は違和感に包まれていた。
卒業したからって、何かが変わる訳じゃない。私服校だから、本当に何一つ変わらないのに、妙に足が進まない。一歩ごとに胸がどきどきして、まるでーー知らない学校に行くみたいな気分になる。
風景は見慣れているし、学校の前のコンビニだってよく行った。すぐ近くにはゲーセンとカラオケやもあって、本屋もある。歩きなれた道、遊び慣れた道のはずなのに、と私は立ち止まって胸に手を置いた。
何一つ変わらないと思ってた。
「お、遊びに来たのかい?」
正門までたどり着き、立ち止まった私に顔見知りの老獪な守衛が話しかけてくる。それにもなんでか愛想笑いしか返せない。
卒業しても何も変わらないはずだった。在校生から卒業生になるだけで、ここは私の居場所のひとつのはずだった。
なのに、今思うのは。
「りっちゃんっ」
正門からまっすぐ見える昇降口から、白井君が走ってくる。その姿を前に、私は足を進めたいのに、会いに来たのに進めない。自分の笑顔が引きつっているのを感じる。
私、なんでここに来れたんだろう。
「りっちゃん先輩、本当に来たんだ」
「ん」
私の前に立った嬉しそうな白井君が、首をかしげる。
「どうしたの?」
「んー」
私はどうしたらいいかわからなくて、しかたなく微笑んだ。
白井君に聞きたいことがあったはずだった。だけど、今ここにいる自分に違和感があって、なんでか疎外感があって、今にも泣き出してしまいそうで。
「……なんでもない」
踵を返した私は白井君の驚く声を背中に聞きながら、逃げ出していた。
学校は私の居場所だった。卒業したって、それは変わらないはずだった。たったの一日前までは、ここに私の居場所はあった。
だけど、なんでたった一日で。
「律っ」
腕をとられて、振り返った私の視界の向こう、白井君の姿が歪んでいる。ああ私泣いてる、なんて他人事みたいに考えながら、顔を背けようとした私は、一気に引き寄せられていた。
何が、起こったんだろう。
「律、落ち着いて。大丈夫だよ、もう、大丈夫」
白井君がいつものテノールでゆっくりと繰り返す。落ち着いたのは白井君の腕の中だからなのか、それとも学校から少し離れたせいなのかわからない。
「どうしたの、りっちゃん」
さっきまで私を「律」と呼んでいた白井君が、いつもの呼び方で私の顔を上げさせる。
「どうも、しないよ」
「どうもしないことないでしょ。ここじゃ話しにくいこと? どっか店にでも入る?」
たいしたことじゃなかったはずだった。卒業したって、何も変わらないとたかを括ってた。
「本当に、なんでもないの。白井君はこれから部活でしょ? 戻りなよ」
私が笑いかけると、白井君は辛そうに表情をゆがめる。
「俺には話せないこと?」
違う、と私は首を振った。
「鞄とってくるから、少し……守衛室で待っててよ」
ぎゅっと私の手を掴んだまま白井君が学校に向かって歩き出す。さっき一人で歩いた道なのに、歩けた道なのに。
「りっちゃん?」
正門が見える辺りまで来ると、私はまた一歩も進めなくなった。
「大丈夫?」
顔をのぞき込んでくる白井君を、私はどんな表情で見ていたんだろう。白井君は少し考え込むそぶりをすると、握っていた手を離して、私の肩を抱いた。
「やっぱり、部室に行こうか」
大丈夫、と繰り返しながら、ゆっくりと白井君が私の背中を押す。優しいけれど、逆らえない強さに、私はゆっくりと一歩一歩、正門へと近づく。
だけど、あと一歩で、やっぱり進めない。立ち止まって動かない私をしばらく見ていた白井君は、肩を抱いていた腕を離した。
「ごめん、白井……」
「暴れないでよ、律」
世界がぐるりと回転した。え、と思ったときには青空と白井君の顔しか見えなくて、足が地面から離れてて。俗に言う「お姫様だっこ」をされているのだと、気がついたとたんにそれまでのすべてを忘れて、顔が熱くなった。
「し、白井君っ」
「じっとして」
有無を言わせない白井君がどこへ歩き出したのか、わからないままに私は年下の彼氏の真剣な顔を見つめる。この一年でかなりこの距離で見るのに慣れた顔は、特別かっこいいわけでもないのに、時々とても頼もしい。白井君は頭が特別良いわけじゃないけど悪いわけでもなく、試験の時は私に教わりに来たりする。白井君は特に目が悪いわけでもないけど、少しでもぼやけているのが嫌だからと眼鏡をかけている。白井君が平均的な日本人よりも少し彫りの深い顔立ちなのは、曾祖母がイギリス人だからだとか言っていた。
「着いたよ」
私を抱いたまま、白井君がどこかのドアを開ける。
「こんにちは、白井部長……りっちゃん先輩、どうしたんですかっ?」
ドアを開けたとたんに聞こえてきたキンキンと高いソプラノに、私は思わず眉をしかめる。後輩の一人で、やはり私によく懐いていた松代さんだ。
「りっちゃん先輩、近くまで来たら具合悪くなったんだって。少し部室使っても良いかな?」
「は、はい」
「三十分ぐらいしたら、たぶん大丈夫だから。それまで誰もここに入らないように言っておいて」
「わかりましたっ」
松代さんは気持ちの良い返事をして、慌てて部室を出て行った。白井君が何を考えているのかわからない私は、じっとその顔を見上げる。
「さて、と。りっちゃん、降ろすよ」
そっと机に降ろされた私は、机に座ったままで白井君を見つめる。私の視線に気づいた白井君が恥ずかしそうに頬を染めた。
「落ち着いた?」
「ん」
私が頷くと、白井君も嬉しそうに笑う。
「それで、どうしたの?」
改めて問われた私は一度、目を閉じた。
「昼に起きて、ご飯食べたら、白井君に会いたくなったの」
「卒業しても私は何一つ変わらないと思ってたから、気軽に学校にきたのよ」
「でもね……」
目を開いた私の前で、白井君は真剣に聞いてくれている。でも、の続きはとても馬鹿らしくて、私がいうことがわかってくれるとは思えない。
自然と、私は泣きそうな気持ちなのに笑っていた。
「学校にきて、ここにはもう私の居場所はないんだって、気がついて、怖くなった」
「ここだけは、部室だけは変わらないとさえ思ってたのに、今だって怖いよ」
「白井君、私……ーー」
私は泣き出してしまいそうで、俯いてしまった。
「私、本当に卒業しちゃったんだね」
口に出したら、急に言葉が深く染み込んできて。昨日は出なかった涙が溢れてきて。私は拭いもせずに、流れ落ちるままに泣き続けた。
「律」
白井君の冷たい手が私の頬に触れ、濡れてゆく。
「律」
頭を引き寄せる力に逆らわずにいると、白井君の胸に顔を押し付けられて。抱きしめられているのに、私はただ安心してしがみついて。
「っ」
止まらない涙を押し付けた。嬉しいからじゃなく、淋しいから流れる涙は全部白井君の服に吸い込まれて。
「……ごめん、白井君」
泣き出した時と同じく、唐突に私は泣くのをやめた。恥ずかしさから、白井君の顔を直視することはできないが、抱きしめられたままというのもまた別の恥ずかしさがあるから、俯いたままで白井君から体を引きはがす。
「そういうことだから、私、帰るよ」
机から降りて、まっすぐに私は進もうとした。だけど、後ろから私の目を覆い隠す冷たい手に阻まれる。
「俺に会いにきてくれたんだよね、律」
だめだよ、と耳元でテノールが囁くと、ぞくりと背筋が震える。
「りっちゃんのいうことが全部わかるとは言わない。でも、律が俺に会いにきてくれたのは嬉しいよ」
「白井……」
「律、卒業おめでとう」
一昨日は笑えた言葉なのに、今は同じ言葉が酷く寂しさを募らせ、止まったばかりの涙がまた溢れてくる。
「言わないでよ」
「卒業しても、変わらないよ」
「っ」
「もうここは律にとって怖い場所かもしれない。でも俺の律を想う気持ちは変わらない」
耳元のテノールが、囁く。
「律が怖いなら、俺が律の居場所になるよ」
振り返った視界の向こう、白井君の姿がぼやけている。
「だから、これからもここに来て、笑って?」
白井君はそういって、私を引き寄せた。近づく距離に私は自然と目を閉じる。次には額に柔らかな感触。
「今までもこれからも、卒業しても大好きだよ、律」
帰り道、白井君と歩きながら問いかける。
「白井君、なんで時々私のこと、律って呼ぶの?」
普段はりっちゃんとかりっちゃん先輩とかなのに。私が問うと、白井君は少し頬を染め、指を絡ませてきた。
「慣れようと思って」
「慣れる?」
「りっちゃんはみんなが呼ぶでしょ。りっちゃんは皆のりっちゃんでいいけど、律は俺だけの彼女って区別したくて」
ただの独占欲と言われたらそれまでだけど、白井君に言われるのは私もいやじゃない。
「そっか、じゃあ私も白井君から卒業しなきゃね」
「えっ」
「何がいい?」
名前でと言うかなと期待半分、恥ずかしさ半分。でもたぶん、慣れるまで時間はかかるだろう。
白井君が卒業するまで、あと一年。それまでに私も「白井君」を卒業しようとひそかに決めて、私は白井君に笑いかけた。