アタシはドアまで駆け寄って、ドアノブを回して、力をこめて引っぱる。うんしょっと重い木製のドアを小さな軋みをあげて開きながら、廊下の暗がりへと声をかける。
「しょーじろー」
廊下は暗くて、食堂の扉より奥は真っ暗で何も見えない。
「しょーじろー、一緒に行くって言ったよ。学校、一緒に行くって言ったよ」
今朝起きた時、確かにしょーじろーはアタシにそう言った。これからもずっとかはわからないけど、「今日」は一緒に行くって言ったのだ。
「だから、しょーじろー、」
しょーじろーは時々ウソツキだから。アタシの不安な声は廊下の奥に吸い込まれ、帰って来ない。それがそのまましょーじろーの答えみたいで、アタシはすごく怖くなった。
そりゃ、
「しょーじろー、行こうっ」
叫ぶアタシの声には泣きたい気持ちが混じっていて、つられて視界が歪む。
「しょーじろーってばっ」
後ろから大きな影がアタシにかかる。それがタローちゃんとわかっているから、アタシは振り返らない。
「しょーじろーも一緒じゃなきゃ、やだっ!」
強く拳を叩きつけた廊下は大きな音がして、叩きつけた前足は痛くて。
「トラ坊」
「イヤっ!」
宥める声を振り払い、しっかりと暗い廊下の奥を見つめる。ネコのアタシなら見えたはずの、その奥を見つめて、しょーじろーの姿を探る。当然だけど、そこには闇ばかりが広がっていて、今ニンゲンのアタシには存在を感じることも出来ない。
「っ…やだぁ、しょーじろぉ…っ」
「あんま我侭いってやるな、トラ坊。キヌさんだって事情が、」
頭に置かれる手を払いのけ、振り返って、タローちゃんを下から睨みつける。だって、と開きかけた口は、すごく困った様子のタローちゃんを前に言葉をなくす。
本当は、我侭だってわかってる。あれだって、たぶんアタシに準備させるために言った嘘で、本当は…もうこの家に帰ってこられないこともアタシは予感してたんだ。
アタシだって、
でも、どれだけ頭で納得しようとしてもこれは無理だ。だって、アタシはしょーじろーも
「…しょーじろー…」
暗がりに最後の声をかける。これで答えが無かったら、アタシは。
ーーアタシは、どうしたらいいの。
項垂れたアタシの耳に、ドアが静かに開く音が届いた。少しだけ伺い見て、すぐにアタシは顔を上げる。
「まったく、困った子猫ちゃんですね」
しょーじろーが食堂から出て、ドアをパタンと音を立ててしめる。閉めたドアに左手をついたまま、しょーじろーはアタシを見ない。ふわり、とドアから入ってきた風がアタシの髪を巻き上げ、しょーじろーの方向へと靡かせた。
「しょーじろーっ」
アタシは足を振って靴を脱いで、急いでしょーじろーに駆け寄る。いなくなってしまわないうちに、早く早くと急く心のままに走り寄り、迷わずに抱きつく。
ふわり、としょーじろーの香りがアタシを包むけれど、実際にその腕は伸びてこない。いつもならすぐに抱きしめ返してくれるのに、それがない。
最後だというのを認めたくなくて、アタシは一度離れてから、ドアについたしょーじろーの左手を掴んで引いた。
「一緒に行こうっ」
「トラちゃん」
宥める声音に、アタシはふるふると首を振る。
「一緒じゃなきゃ、嫌だぁ」
しょーじろーは少し迷ってから、急にアタシを軽々と抱き上げた。すぐに見下ろす高さになったアタシは、じっとしょーじろーの弓なりの細い瞳を見つめる。
「すぐに学校で会えるのに、どうしてそんな我侭を言うんですか?」
涙を堪えて、アタシもじっと見つめ返す。だけど、すぐにアタシは堪え切れなくて、頬を伝う冷たさを自分のニンゲンの手の甲で拭った。
「こすっちゃだめって言ったでしょう」
「んー」
アタシの手を避けて、頬に柔らかな布が当てられ、びくりと身体が震える。手を伸ばして、アタシの頬を白いハンカチで拭ってくれるしょーじろーをアタシがじっと見つめていると、しょーじろーは嬉しそうに笑った。
「学校では僕のことも九影君のことも、ちゃんと先生と呼ばないといけませんよ」
「センセイ?」
「衣笠先生って、いってごらんなさい」
促されるままにアタシは復唱する。
「きぬがさセンセー」
「よくできました」
しょーじろーがアタシの頭を軽く撫でる心地よさに、アタシは一時目を閉じ、すぐにまた開く。しょーじろーが歩く振動を感じたからだ。
アタシたちが向かっている方向は玄関だ。ゆっくりと進む歩みに、アタシはしょーじろーの頭に腕を回して、ぎゅっとしがみつく。
「トラちゃん」
歩きながら、目の前の玄関の外にいるタローちゃんから視線を外さないままにしょーじろがいう。
「
いつもならすぐに応えられた。
玄関の段差の手前で、しょーじろーがアタシを床におろす。足が地面についたのを感じて、アタシはすぐにしょーじろーにしがみつこうとした。
「トラちゃん、約束を憶えてますね?」
びくりと身を震わせ、アタシは差し伸べた腕をおろす。
「
雨が降ってもいないのに、アタシは全身にあの日の雨を感じた。
「もしも
考えたくもないことだ。
「トラちゃんは自分の命を代償としてニンゲンになったはずです」
あの日、ニンゲンになったアタシにしょーじろーは言った。
「半年だけ、僕が君の先生になってあげましょう」
その言葉の通り、しょーじろーは半年かけてアタシにニンゲンのことを教えてくれた。服を着ることから、二本の足で歩くこと、椅子に座って食事すること。およそニンゲンらしくアタシが振る舞えるように、すべてを教えてくれた。
その時間があんまり楽しいから、アタシは一番大切な約束のことをすっかり忘れてた。
頬に冷たさを感じて、アタシはもう一度だけ自分の頬っぺたを手の甲で拭う。これは決まっていた「約束」」だった。「約束」を破ったら、アタシはニンゲンでいることはできないし、
「しょー…きぬがさ、センセ」
言いかけた呼び名を飲み込み、アタシはまっすぐにしょーじろーを見つめる。しょーじろーの綺麗な瞳がかすかに揺れていた。
しょーじろーはアタシがいなくなって、少しは寂しいと思ってくれるのだろうか。アタシは、すごく寂しい。でも、これが約束だから。
「アタシの先生になってくれて、ありがとうございました」
両手を脇にそろえて、アタシはゆっくりと頭を下げた。目の前の床に黒い染みがいくつも落ちるので、強く両目を閉じる。
「この恩は絶対に
だから。
「だから、アタシのこと忘れないで…っ」
しょーじろーと出会ってからの半年、すごく楽しかった。いっぱい怒られたけど、それ以上にほめられたし、いっぱい笑いあった。その日々が消えないことをアタシはもう知ってる。
だけど、顔があげられないよ、しょーじろー。だって、顔を上げたらもうここを出て行かなきゃならない。もうしょーじろーと一緒に眠ったりもできない。
本当は声を上げて泣きたい。でも、そうしてアタシは学校に行かないことを、
ねえ、しょーじろー。アタシ、しょーじろーのこと大好きだよ。
ぽん、とアタシの頭をしょーじろーが撫でる。暖かくて大きな手のひらだ。
「じゃあ、また学校で会いましょうね、トラちゃん」
その手が離れたのを感じてアタシが顔をあげると、すでにしょーじろーの姿は廊下の奥に消えていた。
じっと暗がりを見つめていたら、また頬を冷たい水が滑り落ちる。アタシは無造作に目を擦ると、くるりと踵を返し、玄関に降りた。
つめたい床の感触が靴下ごしに染みてきて、アタシは屈んで揃え直した革靴に足を入れた。
さっきよりも容易に履いた靴だけど、一歩を踏み出すと踵が少し脱げる。靴が逃げ出さないように、アタシはもう一歩を前にだす。それを繰り返して、すぐに眩しい光の下に出たから、アタシはまた目を閉じた。
「あー、トラ坊、きぬさんは」
気遣うタローちゃんの声音に、アタシは顎を少しあげる。
「しょ、きぬがさ先生は後で来るって」
ドアのそばにいたなら聞こえたはずなのに、タローちゃんは変なことを言う。さよならしたのだって、知ってるはずなのに、変なことを言う。
頭を大きな手が覆って、そっとアタシの頭撫でた。触れた場所からタローちゃんの優しい気持ちが流れてきて、また泣きそうだったけど、アタシは強く奥歯を噛んで堪えようとしたの。
「別に今生の別れってわけじゃねぇんだから、あんまり泣くな」
ーーうさぎさんの赤い目で、
タローちゃんがしょーじろーとおんなじことを言うから、閉じたアタシの目から水が溢れて止まらない。
「…っ」
「っち、だから泣くなって。お前に泣かれたら、困るんだよ」
そんなこと言われたって止められない。アタシだって、泣きたくなんかない。でも、しょーじろーがーー。
「うあーっ!」
とうとう声をあげて泣き出したアタシにタローちゃんがオロオロと困っていたけど、アタシもどうやったらこの涙が止まるかわからなかった。
「おおい、勘弁してくれよ、きぬさん」
「あーっ!…っ」
タローちゃんがアタシの口を抑えてくれたから声は出なくなったけど、それでもアタシの涙は止まってくれなかった。
しょーじろー、アタシはやっぱり嫌だよ。しょーじろーも一緒じゃなきゃ、嫌なのよ。
泣きつづけても、しょーじろーと同じく過ごす時間が戻らないことは、いくらアタシだってわかってた。でも、理屈で涙を止められなかったんだ。
「ーーっ」
「泣き止んでくれや、トラ坊」
ごめんなさいとアタシは何度も心の中でタロー謝る。だって、涙の止め方がわからないの。いつもなら、しょーじろーが抱きしめて、優しく頭を撫でてくれたら止まるけど、今はしょーじろーがいないんだもの。
しょーじろーがいないんだもの。
「ーーっ!」
声にならないアタシの叫びは全部タローちゃんの手の中に消えてった。
「あーっ! 太郎さんがトラ泣かせてるっ」
「馬鹿、違う。これはきぬさんがだなぁ」
急に明るい声が聞こえたと思ったら、目の前がオレンジ色に包まれた。見慣れた色と声と香りに、アタシは抑えつけられているにも関わらず、両腕を伸ばしてしがみつく。
「マサちゃんマサちゃんマサちゃんーっ」
再び止まらない涙を押し付けるアタシにマサちゃんは少しだけ慌てて、だけど次には優しく抱きしめ返してくれる。
「どうしたんだ、トラ? タローさんや衣笠先生に怒られた?」
俺が一緒にいてあげるから大丈夫だよって、安心を囁いてくれるマサちゃんの肩に顔を押し付けたまま、アタシは首を振る。だって、しょーじろーもタローちゃんも悪くないもん。悪い子はアタシなんだもん。約束を守れない、アタシなんだもん。
アタシがマサちゃんにしがみついたまま顔を上げると、マサちゃんは小犬みたいな黒目を大きく見開いた。
「トラ…」
「しょーじろーはなんにも悪くないよ! 悪いのはアタシなんだもん。いうとおりにできないアタシなんだもんっ」
アタシが悪い子だから、しょーじろーはアタシを嫌いなんだ。だから、時々しょーじろーはあんなに怖い目でアタシを見てたんだ。そう気がついたら、またマサちゃんの姿もタローちゃんの姿も歪んだ視界の向こうに消えてしまった。
「だから、しょーじろーはアタシがき、きら…っ」
あーとまた声をあげて泣くアタシを慌てて抱きしめるマサちゃんの腕は、しょーじろーよりも少しだけ小さくて、しょーじろーよりも少しだけ温かかった。
アタシの背中を、肩をマサちゃんがテンポよく叩く。しょーじろーとは違うテンポにアタシはホッと心が落ち着いていくのを感じた。落ち着いていくと同時に、だんだんと瞼も身体も重くなる。たぶんいっぱい泣いたからだ。
「あれ、太郎さん、トラ寝そうなんだけど」
「泣きつかれたんだろ。まあ、今は仕方ねぇから寝かせとけ」
「寝かせとけって、今日は絶対トラを連れて行かなきゃなんでしょ。どーすんですか」
「あーまあ、保健室にでも寝かせりゃいいだろ」
二人の会話が遠く聞こえる。起きなきゃってわかってるんだけど、アタシの身体はいっこうに動いてくれない。
今日は
ずっと待ってた日なのに、アタシは全然嬉しい気持ちが無くなってしまってた。
「真田、トラ坊を俺の背中に」
「え、俺が連れて行きますよ」
「お前じゃ潰れちまうだろ」
「そんなことないっス。ほら、トラ、ちゃんと捕まれよ」
アタシ、こんな気持ちでこれからやっていけるのかな。
「はじ…め…」
呟きとともに、またアタシの閉じた目から涙がひとつ零れた。
RingRingRing - 4#行ってきますここまで読んでくれて有難うございます。
まだ序章なのに長いなぁと思われた方が多いと思いますが
……作者も同じ心境です←
実は寝逃げさんのある日記に触発されて、私も細かく書いてみよう!というのが、書きはじめた所以なんです。
ストーリーは脳内ではハッピーに終わってるのですが、この話がちょっと問題作でもあるので、ここではここまでで打ち切りたいと思います。
これまでトラを応援してくださった読者の皆さん、有難うございました。
(2009/11/29)
やっと序章が終わった。
某SNSで置いていたけど、この先は完全ドリームなので、やっぱりメイン活動はこっちになるかなー。
一次とも二次ともいえない、実に中途半端な作品ではありますが、せっかくなので最後まで書きます。
…たぶんね。
(2009/12/02)
ファイル統合
(2012/09/26)
続く予定だったけど、長らく放置なので、強制終了
(2014/2/21)