六月に入って少し過ぎた頃、通学路でいくつも紫陽花が咲いているのを見るようになった。一番見事なのは自宅の近所にある公園で、誰が管理しているのか左側の赤から右側の青まで綺麗なグラデーションを作っている。晴れている日は少し寂しそうな紫陽花たちが、雨が降ると嬉しそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。
ある雨の日曜日、私はカメラを手に公園へと向かった。カメラは最近祖父から譲り受けた古い一眼レフだ。
公園に着くと、早速私はカメラを構えて、紫陽花たちを撮ってみた。別にカメラを撮る技術なんてものはもってないから、なんとなくで撮っているだけだけど、ひとつだけ目的がある。
それは、祖母から聞いた言い伝えが元になっている。
「紫陽花から虹が生まれる、か」
なんでも、祖母は小さい頃に一度だけ見た、と。その虹に願いをかけると、どんな願いもひとつだけ叶うのだという。願いは特に思い浮かばないけれど、その虹は見てみたいと思うのだ。
何度目かのシャッターを切ったあとで、私は傘を少しだけズラして、空を見上げる。予報では雨のち晴れと言っていたから、午後になった今はそろそろ晴れてもいいはずだが、一向に退散する様子のない雨雲に溜息をつく。
少し休むか、と近くの東屋へと向かう。
こんな雨の日に公園へ来るような奇特な人間は私ぐらいなので、辺りを見回しても人は見当たらない。東屋に着くと、私はベンチにミニタオルを敷いて座る。それから、バッグから袋に詰めてきたクッキーを出し、水筒を開けて、その蓋に湯気のたつ緑茶を注ぐ。そして、クッキーを食べながら、暖かなお茶で喉を潤しつつ、紫陽花を眺める。
どのぐらいそうしていただろう、はっと気がつくと、隣に誰かが座っていて、私はその人に寄りかかっていた。私が呆けたままに見上げると、彼は眉間にシワを寄せて、怒っている。
「……景一郎?」
私が声をかけると、呆れた様子でため息を付き、私の肩に回した腕を強くする。
「おまえなぁ」
「なんで、ここに景一郎がいる?」
その腕を外して、身体を起こした私が向きあうと、景一郎の焦げ茶色の瞳が戸惑うように揺れた。耳に掛かる程度の長さの景一郎の黒髪は雨の細かい粒に濡れているようだ。手を伸ばして、その髪に触れる。
「なんでじゃねぇだろ」
いろいろと言いたいことを押し込めた様子で、それだけを吐き出した景一郎は、自分のパーカーを脱いで、ばさりと私の頭に乗せた。
「風邪引くだろうが」
言われてみて、自分の格好を見る。青色ボーダー柄のキャミソールに、明るめの藍色の七分丈カットソーを合わせ、下はカーキ色のサブリナパンツという出で立ちで、足元は桃色のストライプサンダルだ。たしかに今は少し肌寒いが。
「午後から晴れるって」
「今は雨だし、寒いだろ」
それもそうか、と素直に景一郎のパーカーに腕を通す。当然のように袖が余るし、腰の下まですっぽりと収まってしまう。
「何して……ああ、写真とってたのか。それ、じーさんの形見だっけ?」
「勝手に殺すな」
景一郎の額をぺしりと叩く。だが、彼は堪えた様子もなく、ふんと鼻を鳴らした。
「で、何撮ってたんだ?」
「紫陽花」
「何も雨の中で撮らなくてもいいだろうに」
情緒のわからないやつめ。
「景一郎は知らないんだ。紫陽花からは虹が生まれるんだよ。その虹に願いをかけると、ひとつだけ叶うんだって」
知らなかっただろうと、にやりと笑うと、景一郎は驚いた様子で私を凝視する。
「おまえに叶えたい願いなんかあるのか」
私は首を少し傾けて応える。
「ないよ。願いは自力で叶えるものであって、叶えてもらうものじゃないもん」
私の答えを聞くと、景一郎は小さく笑った。
「おまえはそういう奴だよな」
それからまた二人で雨が止むのを待ちながら、お茶を飲む。会話はなく、ただ雨のしとしとという音だけが世界に満ちていて、とても穏やかな心地だ。
「あ」
ふと、紫陽花を見ると、そこにだけスポットライトのように光が当たっている。
「私には誰かに叶えてほしい願いはないけど、景一郎はないの?」
尋ねながらカメラを手にし、東屋を出ようとした私の肩が引き寄せられる。
「まだ雨が降ってるぞ」
「景一郎が傘持ってくれるでしょ」
顔だけ振り返った私は至近距離で景一郎と目が合う。何故かひどく真剣な彼の目と、私の目が合う。
彼の口がゆっくりと動く。
「俺の願いは、おまえがずっと俺の隣にいることだ」
意味がわからないほど、私もそこまで鈍感じゃない。でも、今更な気がする。
現にいつだって、どこにいたって、景一郎は私の隣に来てくれるのだから。
「なんだ、じゃあ今と変わらないね」
そう笑って紫陽花を見ると、小さな小さな虹がかかっていた。本当に紫陽花から生まれる虹が願いを叶えてくれるとは、考えてない。でも、そのぐらいのささやかな願いなら、私にも叶えられる。
私はくるりと振り返って、複雑そうな顔をしている景一郎を見上げて笑う。
「そういうことじゃなくてだなぁっ」
なおも何かを言おうとする景一郎の機先を制して、私は言う。
「傘!」
「……わーったよ」
ふてくされた様子の景一郎が後ろに立つ気配を感じて、私は前へと進む。だが、景一郎はすぐにはついてこなかった。
一度振り返ると、景一郎は耳まで真っ赤に染めて、怒った様子で。
とくん、と私の心臓が跳ねた。
「好きだ、って」
「知ってる」
私は今、どんな顔をしているのだろう。
「で?」
で?
「おまえの返事は」
言わないと、だめなのだろうか。
逃げようとする私の両肩を、大股で近づいて目の前に立った景一郎が抑えるから、彼の手にあった傘は地面に落ちてしまった。
「………………き」
「き?」
さっきよりも嬉しそうに聞き返してくる景一郎を、私は困ったように見る。このまま答えるのもいいが、わかっていて聞き返そうとしてくる景一郎に負けてしまう気がする。
くだらない、幼稚なプライドだって、わかっているけど。
「ナイショ」
虹に叶えてもらうまでもないけど、もう少しだけ、待ってほしい。私の覚悟が決まるまでーー。
某みんノベで6月企画に遅れて提出した話。テーマは「雨/虹」で、1000文字以上1万文字以下の未発表読み切りという制限付き。思いつきで書いた割に、まあまあよく出来たかな、と。
でも、しばらく書いてないから、やっぱり出来が良くない。何がというか、糖度が足りない。
が、がんばろう……。
(2011/06/20)