目の前を風が通過するのに合わせて、私はストップウォッチを押した。かちり、と押した値は十二秒五八。
さっき通り過ぎたばかりの風に近寄り、私はタオルを差出しつつ、笑顔で告げる。
「タイムは?」
「十二秒五八、自己ベスト更新だね」
私の祝いに対して、風ーー
「顔洗ってくる」
水道に向かう水鳥川の後を、私はタオルを手にしたままついてゆく。しばらく先に進んでいた水鳥川は立ち止まり、悔しげに呟いた。
「空気さえなけりゃ、もっと早く走れる」
冗談みたいな本気の言葉を私は笑う。
「空気がなきゃ死んじゃうよ」
「いいよ、それでも」
もっともっとと速さを求める水鳥川がまた歩き出す。その言葉の奥にある願いに気づいた私は、追いかけようとしていた足を止めた。
ーー早く走れるなら、死んだっていい。
空気さえなければ、空気抵抗もなくなるのでもっと早く飛べるのに、とと嘆く鳥の比喩をカントか誰かの本にある。でも、水鳥川が死んだら、私が悲しむことは考えてくれないのだろうか。
「……バカ」
大股で水鳥川を追いかけた私は、彼の背中にタオルを強く叩きつけた。
カントの「純粋理性批判」第二版の序論より。
「軽快な鳩は、自由に空気中を飛び回って空気の抵抗を感じるので、真空の中ではもっとずっとうまく飛べると考えるかもしれない。しかしもし空気がなければ、うまく飛べるどころかそもそも飛ぶこと自体が不可能になるであろう」
「鳥」テーマの比喩とかことわざを探してたら、出てきたので。
メモを兼ねて。
(2010/04/23)
公開
(2010/05/28)