さて、どうしてこんな状況なのだろうと私は畳に寝転がった状態で冷静に考える。ただ寝転がっているわけでないし、常ならば慌ててもいい状況だ。何しろ、今の私の隣には井上が赤ら顔で眠っているのだから。
「おーい、誰かいる?」
「なんどすか、葉桜はん」
応えた声は襖の向こう側からで、決して開けようとはしない。その上、その声は私をこの状況に追い込んだ張本人だ。
「私、なんでここに井上さんと閉じ込められてんの?」
答えはなく、気配だけが遠ざかる。どれだけ付き合っても、私には結局ここで働く女たちのことを本当には理解などできないのだろう。それでも、理解しようとする努力は惜しまないつもりだ。
「井上さん、井上さん?」
返事は意味を成さない言葉しか返されなくて、私は仕方なくため息を付いて起き上がった。
窓辺に行って、障子を開けると、外の賑やかな喧騒が聞こえてくる。ここは京の花街でも格式を別にする祇園。島原とは別で、華やかさという点ではこちらに分がある。
そして、そんな祇園で私は常とは違う花魁姿で井上をからかって遊んでいたわけなのだが、どういうわけかここに閉じ込められてしまった。幸い、井上はすぐに酔いつぶれてしまったので身の危険もないし、彼は酔いすぎて、私が葉桜であると気づいてもいないようだ。
体を起こした私は、井上にきちんと上掛を掛け、自分は楚々と窓辺に向かう。それから、窓の端に腕をかけてよりかかる。
「私、息抜きにきただけなんだけどなぁ」
屯所に戻れば、また書類の山が待っているとわかっているが、戻らないわけにもいかない。今日はなんとか近藤と山崎、鈴花を説得して獲得した休憩時間に遊びに来ただけなのだ。
外から吹いてくる風が頬を撫でる心地良さに、私は目を細める。こうしていると血生臭い刀を握る日常が嘘のようだ。こうして穏やかに過ごす日なんて、年に何日もない。まして、こんな着飾った姿でなんてーー。
「ふふっ」
こんな姿、実家を出る前から何年もしていなかったから、かなり新鮮だ。かといって、唯一の芸を披露するのは御免被るが、こういう風に誤解されて閉じ込められるのも面倒でしかない。
軽く息を吐き出し、徐ろに一番上の着物を肩から下ろす。数枚の着物を脱いで下着姿になり、それから角髪を外し、まとめていた髪を自由にすると、待ち構えたようにもう一度風が吹きこんできた。
白い薄衣一枚の姿におろした私の髪が、黒い川のように揺れる。
「……う……」
わずかな呻き声を聞いて、私が布団へと寝かせた井上に視線を向けると、彼は眉間にシワを寄せているようだ。良くない夢でも見ているのだろうか。
私は立って、井上のそばまで寄り、その額に手を当てる。なにか悪い夢にでも取り憑かれているのだろうか。ならば、私にできることはひとつだけだ。
「夢ですよ、井上さん」
私がかがんで耳元で囁くように告げると、井上はどこか安堵した様子で穏やかな寝息を立て始める。それを確認してから、私は襖に手をかけた。
さきほどまではまったくひらかなかった襖だが、今度はあっさりと開かれ、その向こうには見知った花魁が寛いでいる。
「彰姫、悪戯が過ぎるよ」
「そうどすか?」
花魁である彰姫の傍らに用意された着替を手に、私は着慣れた男姿に戻ってゆく。その間も無言で私を見つめる彰姫は、結局私が大小を腰に差すまで何も言わなかった。
「井上さんには何も言わないであげて。この役目は私一人にしかできないから」
私が告げると、彰姫は畳に額をつけるほどに深く頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
彰姫をじっと見つめ、私はその真意を探ろうとしたが、到底わかりそうもない。
「……また来るよ」
そう残して、私は祇園を後にした。
祇園を離れて屯所へ向かう足取りは重く、高い空を見上げる余裕もない。脳裏に過るのは、先程の酒の席での戯言だ。
「あの人は、葉桜さんは不思議な女性だ。強いようでいて弱く、弱いようでいて強い。だから、誰もが惹かれずにいられないのかもしれないな」
酔って呂律も怪しかったが、それは確かに井上の言葉で、私は正体がバレていないとはいえ、ひどく居心地は悪かった。
「誰でも?」
「ああ、そうだよ。この俺でさえも彼女を気にかけずにはいられない。妹、仲間……、いや、それ以上にひとりの女性として、放っておけない。もしも叶うなら、葉桜さんにはひとりの女性としての幸せを手にしてもらいたいね」
共にいた彰姫はそれを聞いていたから、私を酔った井上と共に閉じ込めた。
「そないなら、井上様がその幸せを与えたらええのではおまへんどすか」
私の幸せなんて、そんなものはないのに。
「ははは、そうだね」
井上は酔っていたから覚えていないだろうし、相当酔っていたから変装していた私にも気づいていなかった。だから、今日のことは私が口にしなければいい。
「あたしは幸せになってもええと思うてよ」
彰姫はそう言ってくれたが、私は素直にそれに頷けない。幸せがどんなものなのか、そもそもこんな血に塗れた自分が手にできるとは到底思えない。
目に見えなくても私の罪は重く、誰にも肩代わりできないものだ。こんな自分が人並みの女の幸せなんて、手にしていいわけない。
「葉桜君?」
前から声をかけられて、私は足を止めた。ゆっくりと上げた視線の先、山南が私を不思議そうに見ている。近づいてくる山南と視線を外さないままでいたから、彼が私の目の前に来る頃には見上げるようになっていた。山南の大きな手が私の頬を包むように触れる。
「何かあったのかい?」
山南の言葉を反芻し、私はやっと視線を外して、首を横に振った。山南に心配をかけるわけにはいかないから、私は努めて笑顔を向ける。
「外で会うなんて、奇遇ですね。夕餉でも食べにいらしたんですか?」
山南の世話は彼が贔屓にしていた芸妓の明里という女性を私が身請して、彼女にまかせてあるが、私は二人でいるところまで見たことがあるわけではない。何しろ、屯所が西本願寺に移転してから、私は八木邸に一歩も足を踏み入れていないのだから。
「知人に誘われてね。島原に道場があるだろう。そこのーー」
「それは残念。私はこれから屯所に戻るところなんですよ。さっきまで井上さんに祇園を案内していたんですけど、酔いつぶれてしまったんで、友人に介抱を頼んで出てきたところなんです」
山南の言葉を遮り、私はじゃあとそのまま通りすぎようとした。だが私は山南に肩をつかまれ、びくりと体が震えてしまう。
「井上君が祇園?」
山南は井上が祇園や島原を苦手としていることを知っているのだろう。私は振り返らずに笑い声だけで応じる。
「先日鈴花ちゃんと島原に行ったら、相当楽しかったらしくて、それで私に案内を頼んできたんですよ」
私も息抜きがてら飲んできたのだと言いながら、肩に置かれた山南の手に片手を添える。
「往来ですよ、山南さん」
そっと外すように山南の手を導くと、案外にあっさりと離れてくれた。このまま振り返らずに別れるのは不自然だろうと、私はまた笑顔を作って顧みる。
「じゃあ、また」
何か言いたげな山南を残し、私は足を進めた。少しして、あとを付いてくる気配に嘆息する。やはり、山南は見逃してくれないらしい。山南は優しいから、私の気持ちの機微にすぐに気づいてしまうから。
屯所に近づくにつれ、人通りは減るだろうが、隊士にあう確率も増える。だったらと、私は壬生寺に進路を変えた。山南は気配も消さずに黙って付いてくる。
石段を登りきり、境内についたところで、くるりと私は振り返った。見上げる前に目の前が闇に包まれ、懐かしい野山の香りが私を包み込んだ。
「何か、あったのかい?」
眼を閉じて、私は静かに山南の着物に染み込んだ香りを吸い込む。
「何かって、なんですか」
「今は土方君の代理をしているそうだね。無理をしていないかい?」
変わらない気遣いに、私はくすりと笑いを零す。
「無理なんてしませんよ。山南さんだって知っているでしょう。私は適当にやりたいことしかやってないんですから」
髪を撫で、引っ張られる感触が伝わってくる。
「そうだね。葉桜君はいつも自分のやりたいことを優先して、自分を顧みない」
だから、心配なのだと囁かれ、私は強く目を閉じた。山南はいつも私を見透かすから、困る。
「何があったのか、葉桜君は話してくれないだろうから聞かないよ。でも、少しは私のところに休みに来なさい」
腕が緩められ、山南がゆっくりと離れてゆく。完全に離れる寸前、しっかりと重なった視線は、山南の感情を私に伝えてくれた。そして、きっと私の想いも伝わってしまっただろう。
「わかったね」
頷くことも拒絶することもできない私を小さく笑い、一度私の頭に軽くおいた手で撫でて、山南は私に背中を向けた。遠ざかる山南に何も言えないまま見送った私は、おろしたままの拳を強く握る。
言えるわけがない。私には人並みの幸せを手にする自由なんて、そんな資格なんてないのだから。
どれだけ請われても、私は私の幸せを手にすることなんてできないのだから。
「ーーごめんなさい、山南さん」
まだしばらくは八木邸に近づけないなと、私は遠ざかった山南の消えた景色に映る青空を、瞳を閉じて追い出した。
私の幸せは、周りの皆が幸せであることで、笑顔であること。その他を願ってはいけないと、想いを強くして、私は屯所へと戻った。