1. 傷痕
彼女の趣味はダイエットだ。
そういっても過言ではないほど、彼女はいつもダイエットをしている気がする。最近は無茶なことをしなくなったとはいえ、やはり今もまだダイエットをしているのだろう。今だって、彼女は十分に細いし、俺にとってはとても魅力的だ。
「なあ、なんでそんなに痩せたいんだ?」
彼女が差し出したビターチョコレート味のポッキーを加えつつ訊ねると、彼女は眉を顰めた。かすかに見える哀しそうな様子に、俺は首を傾げる。
「覚えてないの?」
「何を」
聞き返すと哀しそうな瞳を伏せて、彼女は小さく息を吐いた。
「なんだよ」
「初めて会ったとき」
初めて会ったのは高校で同じクラスになってからだと記憶している俺は、ますますわからなくなる。本気でわからない俺を呆れたように見て、彼女は小さく口を尖らせた。
「……ばーか」
「はあ!?だから、なんなんだよっ」
「思い出すまで許してあげない」
私を傷つけた責任は重いんだからね、と彼女は呆然とする俺の額を小さな掌で叩いて、笑った。
彼女の泣き顔に弱い俺が、彼女を傷付けたことなんてないはずだ。少なくとも付き合ってからは一度もないと断言できる。
「………」
じゃあ付き合う前かというと、それこそない。だって、俺は一目で彼女に落ちたのだから。
「まあ、忘れてるだろうとは思ってたけど」
彼女がすらりと傷一つない指を俺の顔の前におく。
「体重四十キロ以上は女じゃない」
まさか、と喉の奥が引きつる。何故彼女がそれを知っているのか。彼女と出会う前、友人達と話していた他愛もない世間話のはずなのに。
「って、それ中学の時の話じゃねぇか」
今にも泣き出しそうな彼女の頬を両手で挟む。
「っ?」
「そんなもん真に受けてんじゃねぇ。いいか、よく聞け」
俺の前髪と彼女の前髪が触れるほど近づき、囁く。
ーーおまえは今のままで十分可愛い。
2. 「さよなら」
目の前に置かれた真っ白い八分の一サイズのショートケーキを片手で掴み、俺はそのまま大口を開けてかぶりつく。それを全部口の中に消してから、俺は目の前のケーキを凝視している彼女に視線を移した。
「なんだ、食わないのか?」
「く、た、食べるっ」
今日はダイエットを一旦終了したということで、彼女と二人でケーキバイキングに来ているわけだが、どうしたことか彼女はまだ一口も手をつけていない。食べるといいながらも、一向手を伸ばす様子はない。
「心配しなくても、今日は俺のおごりだぞ」
その彼女の目の前からもう一つケーキを取ると、彼女は俺が食べるまでをじっと見つめている。構わず口の中に消してから、彼女を見る。
「別にこれぐらい食ったところで、かわりゃしねぇよ」
俺は別に多少太っても彼女に対する俺自身の気持ちは変わらないという意味で言ったのだが、彼女はそう受け取らなかったらしい。
目の前で彼女の焦げ茶色の瞳がゆらりと歪む。そのまま顔を俺からーーというよりケーキから背ける。
「やっぱり、食べない」
「理由は」
「太るもの」
彼女は絶対食べないという決意を示して、身体ごとテーブルから視線を外したから、向かいにいる俺でも胸から上まではよく見える形になった。
「ケーキ一個で?」
大きく肯いた彼女は全くこちらを見ようとしない。一度こうと決めない性格を知っているだけに、俺は小さく息を吐く。
「……出るか」
会計を済まして、二人で店を出ると、彼女はくるりと店を振り返る。
「さようなら、私のケーキ」
そこまでいうなら、食えばいいのに。
3. そして俺は嘘をつく
目の前に拡げた重箱弁当を前に彼女がごくりと唾を飲む音が聞こえた。
「なんの嫌がらせ?」
「は?」
空惚ける俺を瞳を潤ませ、上目使いに見上げる彼女は弁当よりも魅力的だ。
「馬鹿、違うって。これはおふくろがお前にって」
「おばさまが?」
泣きそうだった瞳の涙がひっこみ、意外そうに見開かれる。それから彼女は改めて中身を見る気になったようで、俺はホッと胸を撫で下ろす。
「ほら、先週末におまえ、俺の応援にきたろ?」
「あ、あれは、野球部の応援にチア部で行っただけじゃないっ」
「その礼だってさ」
真っ赤になって否定する彼女に、笑いながら玉子焼きを箸で摘んで差し出す。彼女が好きな甘めの玉子焼きだ。持っている俺もその出来の良さに感嘆する。
「ほら」
「ん」
諦めて目を閉じて口を開けた彼女に、玉子焼きを食べさせる。流石に一切れは大きすぎたのか、三分の一で千切られた。
「……っ?」
「俺は玉子焼きは甘くない方が好きなんだ」
だから食べてくれというと、珍しく素直に彼女は頷いた。
もしここでこれを作ったのが俺で、玉子焼きは彼女好みの甘さに仕上げたとか言ったら。
「ーー俺、殺されるかな」
「んっ!?」
思わず零れた呟きに驚いて喉を詰まらせる彼女に、俺は笑いながら緑茶を差し出した。
4. 消えた温もり
チャイムの音ではっと目を覚ます。眠っていたつもりはなかったが、いつのまにか寝ていたらしい。机から身体を起こし、両腕を高く伸ばして、欠伸をする。
「ぅわっ」
がたん、と大きな音に目を向けると、俺の彼女が教室の床に倒れていた。
「なにしてんだ?」
「なななんでもないよっ」
慌てて起き上がろうとする彼女に手を伸ばし、掴んだ二の腕を引き寄せ抱き寄せる。腕の中に収まってしまうミニサイズの身体は、寝起きに丁度良い温かさだ。
「あったけー」
それを口にすると、腕の中でもがいていた彼女の動くのをぴたりとやめる。どうしたのかと腕を緩めると、見上げる彼女と視線が重なった。
「なんだ?」
何かを言いたげだったが、軽く首を横に振った彼女は両腕をいっぱいに俺の背中に伸ばしてしがみつく。
「ううん、なんでもない」
変なヤツだと笑いながら言うと、絞める勢いで抱きついてくる。ダメージのあるわけではないので、そんな彼女に愛しさが増した俺も、強く、抱き返した。
目が覚めて、最初にみたのが、最初に触れた温かさがおまえで、心底安心したんだと言ったら、おまえは笑うだろうか。
5. 泣くこともできなくて
今俺は自分の不用意な言葉をものすごく後悔している。
「自分で作れば、カロリーも抑えられるぞ」
笑いながら言ったのが悪かったのかもしれない。だから、こんな状況なのだろうかと自分に言い聞かせつつ、彼女の背中を見つめる。
ここは俺の家のリビングで、カウンター越しに彼女がいる場所がダイニング。そして、それだけであればともかく、その隣にはーー俺の母がいる。
「おばさま、これはどうやって切るんですか?」
「ええと、それはね、ええと」
「おばさまー、お鍋が吹き零れてるんですけどーっ」
「きゃーっ」
あああ、とハラハラしながら様子を見ていた俺は結局二人に手を貸すというよりも、二人を追い出し、さくっと昼食を作り上げた。母がまったく料理の出来ない人なので、台所に立つのはいつも俺だから、これは正しい。
リビングのテーブルに三人分の炒飯と中華スープを並べてから、座ったまま俺は彼女を直視できない。たぶん怒っているんだろうな、と思う。あの時の弁当を俺が作ったと気がついただろうし。
「えっと、じゃあ、いただきます~」
嬉しそうに、食事の挨拶をした母はすぐさま炒飯に手をつける。
「……食べろよ」
「う、うん、ーーいただきます」
こちらを伺う彼女を見ないで促すと、戸惑いながらも箸をつける姿が視界の端に映る。
「私がこんなだからねー、すっかり料理上手になっちゃったのよ~」
だから、いつでもお嫁に来てもいいのよ、と。平然と口にする母に俺はもう泣きたい気持ちだった。だけど、恥じらいながらも嬉しそうな彼女を見て、俺はやっと安堵の笑いを零した。